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対称性の破れ

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僕の思索の大きいなテーマの1つが、「『学び』の存在論的検討」です。
この思索を推し進めていったとき、ぶち当たる壁の1つに、
存在を「生命」、もしくは「生きること」ならびに「生きる力」と考えたとき、
存在と学びの相関は、どのようになっているのかということです。

存在と学びは、質的にはとても近いものであることは想像できるのですが、
機能的には、たぶん同じものではない気がしています。
両者の構造的な関係についても、含む含まれるという関係なのか、
イコールに近いものなのか、検討しなくてはいけない要素はたくさんあります。

様々ある検討要素において、存在や学びがある意味で力なのだとしたら、
その両者にある、特に、機能的な関係における思索が進む視点があることを、
最近気づきました。

その新たな視点とは、量子力学的な視点です。
量子力学といっても、僕はその分野の専門家ではないので、
数学的・物理学的な詳しいことは分からないというか、難しくて理解不可能ですが…。
僕が注目したのは、そのいくつかの考え方です。

例えば、存在と学びを1つの力として考えたときのそれらの質的な性質です。
量子力学的な視点で力をみたとき、力と関係している要素として、
粒子、質量、物質、エネルギー、光の速度等があります。
そうした要素が様々な条件や環境によって、
いろいろな現れ方をすることを、素粒子物理学の世界では説明しています。
これは相当に興味深い話です。

様々な説明に使われている理論の中でも、最近の僕が夢中になっているのが、
ノーベル物理学賞を受賞された南部先生が発見した「自発的対称性の破れ」です。
当然、専門外である僕が、この理論をきちんと理解できているわけではないのですが…。

でも、この理論を今まで僕が考えてきた、「存在」と「学び」における、
質的な相関の説明に当てはめると、とてもよくフィットというか、馴染むのです。
詳しいことは、一度、ちゃんとした文章としてまとめようかと思っていますが、
ポイントを簡単に言うと、〈教える-学ぶ〉という非対称的である行為の中にある、
「学び」には、その機能として、自発的な対称性の破れを促す性質的なものが、
組み込まれているのではないかということです。

対称化が進んできた(もの化)近現代社会(世界)では、
「学び」が持つ自発的対称性の破れ機能によって、非対称化(こと化)される。
すると、対称化によって、紛れてしまっていた存在(生命・生きる力)が、
質量を持ち減速し、物質化し世界の中に顕現化される(飛躍が起きる)…。
こんなストーリーが浮かんできているのです。
このことを、実証的というか科学的に説明をするのは、
たいへんであることはよく分かります。

しかし、逆に言えば、科学的には説明しづらい現象であるからこそ存在する。
つまり、素粒子物理学の世界が、私たちが見ることのできない、
もう1つの世界の存在を解き明かそうとしていることと重なるわけです。
このことは、今まで科学的である言ってきたことの前提性を疑うことでもあるわけで、
僕が従来注目してきた教育不可能性への視点とも重なり、興味がつきません。
いろいろと考えることがあって、時間がアッという間に経つこの頃です。

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