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僕はいつでも片想い

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 僕はいつでも片想い…。

  私その日から あなたのとりこ 口には出せないどうして伝えよう 
  名前も知らない あなたへの One-sided Love~♪

 竹内まりやさんじゃないけれど、いつもこんな感じ…。
 僕の片想いは、なにも人だけじゃない。場所にも、モノにもコトにも気がつくといつも片想い…。片想いだからそうなるのか、それともそう想う傾向が強いから片想いとなってしまうのか…。そう想う傾向とは、若者たちには、ディアローグ的な対話を大切にしろと言っているのに、自身は、モノローグ的な対話が中心となる傾向が強いのです。本人は、よかれというか、人やモノやコトが崩壊するというか、降りかかるであろう危機を回避するためにはこうしなればいけないと、想うがゆえに考えるのだけれど…。それが、そうした傾向が強いだけに、自身とのモノローグの結果(内省的)であるだけに、それも深く濃く内省的な対話を重ねた結果、導き出された結論であるがゆえに、強く独我的なものとなってしまうのです。言い換えれば、独善的なものとなってしまうわけです。

 だから、そうした相手に対して、こんなに想っているのに、何も応えてくれないと勝手に思い、がっくりくることが多いわけです。でも、これは、僕が本性として持つものなのかもしれません。なので、こうした傾向はしょうがないとあきらめるようにしている今日この頃ではあるのですけれど…。

 まぁ、そう考えれば僕の片想い症候群はどうにか片がつくと言いますか、まさに抑制の効いた理性的な生き方となる訳です。しかし、ことはそうは簡単ではありません。やはり、僕はあるとき気づいてしまったんです。デカルトさんのように…。「我れ、想う故に我れあり」と…。これは、僕流の解釈ですけれど、デカルトさんは、そう考えている自身の想い自体が自身の本性的な想いなのかと疑ったわけで、自身が主体的に考えていると思っていた意識そのものが、既に他の何かによってすり込まれた意識なのではないかと疑えと言ったのです。

 つまり、僕が気づいたことは、どうやら想いというか、意識と考えられていることには、2つあるということ。1つは、ある後天的な外的作用によってすり込まれた、超自我化されてしまっているような、主体的な意識であると思い込まされてしまっているもの。そして、もう1つは真にというか、自然(本性)として涌き立ってくるものとしての意識というか想い。哲学的に言ったら、アプリオリな意識とでも言いましょうか…。そして問題は、僕の想いはどちらの意識から来るものなのかということなのです。
 ここからは、想像というか直観的なものです。自身が歳を取った結果、片想いの想いの結末を実際のシーンとして見る機会が多くなってきたのです。昔の直観は非科学的で論理的な説明がうまくできなかったのですが、時間をかけたことで帰納的に理解できるようになってきました。結論として、どうやら僕の片想いの想いは、本性的に未来を観える(捉える)がゆえに、危機回避機能として稼働しているぽいのです。なんだか、都市伝説のような話になってきました。だからと言って、僕の片想いは成就することはなく、多くのコト・モノは僕の想いとは違う方向へと向かうのです。あたかも、危機を迎入れるがごとく…。

 ここまで書いていて気づきました。僕の片想い症候群、自分ではディープなモノローグと考えていたけれど、これって究極の非対称性なんじゃないかと。つまり、究極なディアローグ的対話と言えるのじゃないかと…。そして、簡単には成就しないのですから、どこまでいっても両者の差異が延長されていく…。ありゃりゃ、差異の差延だ…。なんだか、自分の存在そのものが脱構築的。片想いをし続けることが代補の運動的。僕にとっての片想い症候群は、これが生きる原動力の1つになっているぽいです。世界や社会が、一層の分裂傾向を強める中、こうした意識が、僕の意識統合のための自己防衛機能であると思われます。と、自身の在り樣を正統化して終わります。んーっ、モノローグぽいな…。(>_<)

締め切りがせまってきました。
こちらも引き続き、よろしくお願いいたします。
居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』
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