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主権在民

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 今週、うすぼんやりと考えていたことは、国民の主権についてです。ここで僕が想起している主権とは、「自分のことは自分で決めさせて」という意味で、言い換えれば、自己決定権ということになるでしょうか。昨今、世界の動向としては、グローバル化なるものが進んでいるので、各国とも国家的な主権は当然抑制されてきているわけです。それで、多くの先進諸国は、国民国家で民主制を採用しているので、国家的な主権とは、国民主権のことを意味します。したがって、グローバル化が進むことによって、国民主権が侵害されることになるのですが…。

 国民主権がないがしろにされるということは、自分のことを自分で決めることができない状態に陥ることを意味し、言い換えれば、自己決定権が剥奪されることを意味します。こうした状態に何年かにわたり国民が曝され続けると、個々の政治性とか思想性とは別としても、多くの国民は、時の為政者というかグローバル化を強固に推し進めようとする体制ならびに権力者に対して、何らかの形で異議を申し立てるようになります。20世紀の初頭に起きたグローバル化の結果、先鋭化し引き出されたものが全体主義であったことは記憶に新しいです。

 こうした視点から考えると、少し前であれば、イタリアのスローフード運動やカナダのリテラシー運動など、そして最近では、イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ現象、フランスでの極右勢力の台頭などもそうした動きの1つであると言えるでしょう。このようなグローバル化に対する国民の自己決定権回復運動的なものは、それがいわゆる右派的なものであれ、左派的なものであれ、 歴史の中では何度か繰り返されてきました。国民による抵抗が起きるという点において、近代以降の国民国家の特に民主国家における国民は、自分たちの主権が侵害されることに対して敏感であると言えます。

 そうした世界の状況にあって、僕が思ったのは日本のことでした。イギリスやアメリカなどと同様に日本でも、1990年代後半より新自由主義政策を筆頭にして否応なしのグローバル化が推し進められてきました。そうした政策を支えたキーワードが「多様化」であったり、「選択の自由」であったりしました。そして、実行した結果、引き起こされた失敗については、「自己責任」という逃げ言葉が用意されました。戦後の強力な経済発展政策によって、既に国内における国民の自己決定権は脆弱なものになりつつあったところに、さらなるグローバル化の波が押し寄せたのです。国民の自己決定権の後退、すなわち主権の侵害は覆い隠せないものとなってきました。ここまで主権を侵害されたとなれば、本来なら左右の思想性などには関係なく、自己決定権回復運動が国内の各地で起き、1つの政治的な声となってもおかしくないはずです。しかし、日本ではそうした主張を前面にした運動は未だ大きな運動とはなっていません。

 事例としては、少し遠回しな話となってしまいますが、例えば、日米地位協定等の話を授業などですると、この問題の本質の1つが主権の侵害であることに気づく人は少ないですし、自分たちの主権が侵害されていることに対し憤る人も少ないのが実情です。僕は思います。日本の人は、自己決定権の大切さ、もとより国民主権であること、つまり、主権が国民にあることの大事さにどれほどの人が意識と理解をしているのだろうかと…。
 一方で、もう1つの心配事は、グローバル化による抑圧によって引き出される国民の対抗意識が、単純に感情の吹き上がりに結びつけられ、ナショナリスティックな全体主義とならなければよいなと思います。それにしても、日本の人の主権意識の低さはどうしてなんだろうと思い、これは主体の問題とも重なるな~、と一度整理し考える必要があると思っています。長くなったので、今回はここまで…。

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