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二重意識

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 最近、若者と部分部分ではありますが、ポール・ギルロイさんの『ブラック・アトランティック』の読み合わせをしています。この著作は、欧米で暮らすことを余儀なくされた黒人たちの文化・思想・歴史等を通じて、彼らの精神性を背景として近代性ならびに近代化の本質の理解を試みたものです。特に、これらの分析の重要な道具立ての1つとして、「音楽」が使われているところが、たいへん興味深い切り口となっています。

 僕自身は、既に昔に読んだことがある著書ではあったのですが、諸事情から再び読むというか、この著作を材料として対話をくり広げることになったのです。結果として、一人で読んだときには気づかなかったことが、次々と浮かび上がることになりました。ディアローグ的対話の効果は大きいなと改めて思ったのでした。そこで新たというか、再確認した部分なのですが、それは、二重意識という部分です。この二重意識とは、当著の中では当然、黒人における二重意識ということになるのですが、改めて読んで気づいたことは、日本人に重なる部分、そして僕自身に重なる部分の発見です。

 まずは日本人(日本とか日本人とかと表現するとき、その定義づけにいろいろと違和感を感じますが、一般的な意味で漠然と使います。)と重なる部分については、当著で言うところの近代化、言い換えれば欧米化ということになるかもしれません。そうだとすれば、日本における近代化(欧米化)とは、明治以降の話となるわけなのですが、そうした欧米化の波について、日本で暮らす人々は黒人たち同様に、欧米化に対する二重意識を持ったに違いありません。その二重意識とは、簡単に言えば、「恐怖」と「擁護」です。そして、その背景にある精神性は、前者はそんなものがあるのだとしたら、日本に住む人々が持つであろう日本人ならではの本性性の喪失であり、後者は、発展すること、特に資本主義的な発展を担保した科学性(理性)ということになります。
 黒人たちの場合は、否応なしに欧米社会を移動させられた結果の近代化であり、日本の場合は、近代化が向こうからやってきたという違いだったのですけれど、近代化の波に曝されたときの人々の反応は、多くの共通点があったように感じます。辛口の言い方になりますが、まさに物理的な移動は伴わないままに、精神がディアスポラ化したということになる気がします。その精神構造を単純に説明すると、日本人としてのアイデンティティの喪失に対する不安と同時に、そうした日本人としての本性性に対する誇りすらも商品の1つとして回収し貨幣の獲得に結びつけるような科学性に対する畏敬の念…。つまり、この両義性こそ、近代化の正体の1つであるということです。こうした構造を明らかにする切り口の1つとして、ギルロイさんは、黒人の音楽を取り上げたのです。こうした道具立てに芸術ならびに芸術活動を用いる意味を考えるには、例えば、ハイデガーの芸術論を参照する必要がありますが、今回は詳しくは触れません。一言だけ言えば、芸術活動とは、近代化/科学化などによって覆われてしまった作品が本来持つ存在としての本性性を顕在化する試みであるということです。

 そして自身の話に重ねれば、と言ってもここからの話を詳しく展開するとたいへんなことになるので、知りたい方はお気軽にお声をおかけください、機会がある時に説明します。何だか予告編みたいですが、僕の場合は、近代化/教育化などという視点も含みつつ、僕の二重意識の本質は、「スペック/本性性」と「理性/科学性」ということになり、この両義性をどのようにして統合し、その在り様を正統化すべきかという葛藤と恐怖の日々との闘いということになります。そして、こうした二重意識を超え現代を生き抜く術が学びであり、学び続けることが、代補の運動、すなわち脱構築であるということになり、さらに付け加えるとしたら、こうした二重意識(両義性)こそこれらの運動の原動力となっているのだと思われます。

 ということで、ほんのほんのさわりの話ではありましたが、若者との対話(学び)が、紛れてしまっていた僕の本道の意識を顕在化させるよいケース紹介となりました。蛇足ですが、こうした学びの実践は、当然、僕が持つスペック/本性性の意識をも活性化します。もう、お気づきの方もいらっしゃるかとは思います…。やはり、そこが僕の存在の意義なのかな~。と、また、揺らぐのでした。(^^)/

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