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『15時17分、パリ行き』観ました…

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 観たかったクリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』を観てきました。忘れないうちに感想をちょこっと書き並べておこうと思います。

 この映画は、2015年8月21日、乗客554人を乗せたアムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリス車内で発生したテロ事件(タリス銃乱射事件)に旅行中に居合わせたアメリカ軍人2名と大学生の3人の友だち若者グループの話です。結果として、この3人の若者は協力し犯人を撃退して、怪我を負った乗客を助けることになりました。この当事者である3名が本人として出演したドキュメンタリータッチの作品です。

 さて、ツラツラと感想を書いていくことにします。俳優としてのクリントさんも当然ながら、監督としての彼も僕としては大好きな人の一人なので、彼の出演・監督作品は多く観てきました。最近では、『ハドソン川の奇跡(2016年)』『アメリカンスナイパー(2014年)』『グラントリノ(2008年)』等々とです。で、まずは今回の作品の感想を書く前に、少し彼の人なりに対する感想を書いておこうかと思います。感想と言うよりは、僕勝手な印象といったものです。僕が持つ彼のイメージは、草の根右翼的な感じでしょうか…。伝統的なといいますか、まっとうなナショナリストという感じです。まっとうとは何かと言う問題はありますが、僕の勝手なイメージでは、日本でいうところの北一輝氏のようなイメージで「国民の天皇」と言った言葉に重ねるならば、「国民のアメリカ」というスタンスを誇りとして持っている方のような気がしています。そんな彼の最近の作品は、アメリカの伝統的な保守主義(ただし宗教との絡みは注意が必要ですが)から見ることができる現アメリカに対する憂いみたいなものがモチーフとなっているような気がしています。なので、今回の作品も、政治的な立場から言えば、彼は時や支持する人によって立ち位置を変えてはいますが、最近のイメージでは共和党寄りな感じであった彼でさえも、トランプ氏への批判も含めた政権への批判的な眼差しを含むものだと感じます。

 五月雨式に作品の感想も断片的に含めますが、最近の彼の作品は、個人にフォーカスされたものが多いです。一アメリカ国民の日常の延長線上にあるものや、日常の中で起きる事件の意味について描いているものが多いです。彼自身も経験しているからでしょうか軍人(軍隊)に関係している設定も多いと思います。彼のような立場で国家や国民の主権というものを考えるとき、軍人だとか移民の人たちだとかの存在は表象対象となるはずです。中でも軍人においては、今回の作品でも3人の若者の一人が、人のために役に立ちたいと軍隊に志願するシーンははずことができないでしょう。昔、三島由紀夫氏が軍隊は志願じゃないと信用ならないと言ったらしいことに通じます。このことは、ちょっと嫌なイメージを想起させてしまいますが、自分のもの(国民)として国体(アメリカであれば、アメリカ民主主義)を守るという主体?的な意識を重視する…。ここでちょっと注意が必要なことは、アメリカの国体であるはずのアメリカ民主主義は、その前提として、主権者としての国民が作るもの、もしくはそうした国民が本来持つはずの基本的な権利等(例えば、自分のことは自分で決める的なもの)を守るために国家(国体)があるということで、そこの順番を間違えてはいけません。草の根右翼的に言えば、彼の作品の多くが義理と人情、人間の情動から来る内発的な意識を大切にして振る舞え、そしてそうした価値観が保証される社会とそれを守るために機能した制度を国家は持つべきであるという主張を垣間見ることができるはずです。
 だとすると、人の持つ内発的な意識を重視すると同時に、そうした国民の心のあり様を守るための制度とその理念的なものもしっかりしてないといけないということにも通じます。同様に教育の分野(哲学者として見た方が分かりやすいが…)において、子どもたちの内発的な意識を重視したデューイ氏は、まっとうな民主主義の上で教育はされなければいけない的なことを言いましたが、まっとうな民主主義が機能していなければ、教育をはじめとする様々な装置が健全な働きをしないということです。この点についても、彼の作品は指摘をしていると思います。つまり、現在のアメリカでは、国民が本来持つであろう内発的な意識による主権者意識を基盤として形作られたはずのアメリカ民主主義という制度そのものが劣化して揺らいでいる(例えば、金融資本主義への変化)ことに対する憂いも含んでいるように思います。今回の作品では、保守的な装いをしながら、伝統的な保守としての原則に無頓着なトランプ氏への批判も含まれている気もします。

 補助線的なことが長くなりましたが、以上の視点などを念頭にして、今回の作品を観ていくと、いろいろなことに気づかされます。偶然的な感じはしますが、なぜ、パリなのか、アムステルダムなのか…。アメリカの歴史を知っている方なら、フランスやオランダとアメリカの関係から、直ぐにアメリカ独立戦争(1775-1783年)のことを思い出すに違いありません。ヨーロッパやイスラム圏とのことも想起するかもしれませんが、独立戦争におけるフランスとの関係は、アメリカ建国と深い関係があるだけに、アメリカという国の原点を思い起こさずにはいられません。フランス革命などからの影響や、カトリックとプロテスタントとの関係による現在アメリカの宗教的な政治バランスなど…。どちらにしても、まさに建国の志であった、例えば国民の内発性としての自由や平等の意識などを取り戻すべきであることを気づかされます。
 また、映画の中で出てきた教育(学校)に関することにもいろいろなことを思い起こさせます。主人公の若者たちは、個性の強さゆえに公立の学校にいることができず、宗教系の私学に転校します。しかし、そこでも学校にはなじめずにいました。このシーンも重要なシーンだと思います。アメリカにおける公立の学校は、本来であれば個性が強い子どもたちの持ち味を引き出す場でなくてはならないのに、むしろ排除し1つ間違えれば病気にして医療的新市場に回収させようとする。そして、本来であれば、アメリカ発展の原動力を補完していたはずの宗教的な私学でさえも、内発的な才能を持つ子どもたちを包摂しきれない現状…。公的な制度や宗教のあり様が転倒してしまっているアメリカ社会に対する警告がここにあります。
 軍隊に志願した若者の一人が言います。彼は、人や社会の役に立ちたいと軍隊に入りますが、第一志望の部隊に属することはできず、それでも与えられた場所で努力をしますが、なかなか評価されず、それでも自分には何か大きな目的とか役割が担わされているはずだからできるかぎり頑張ると…。そんな気持ちで生活をしていた彼の前でテロ事件が起き、彼自身も負傷を負いながらも身体張って犯人を撃退し怪我を負った人を助けます。ずーっと現アメリカ社会からは疎外され続けられていたにもかかわらずです。おそらく、これは軍人(軍隊)賛美ではないことが、今までの話からも分かると思います。本来のアメリカであれば、当然のこととしてまっとうに評価されなければいけない人たちが、そもそも、そうした人たちが国民であり、社会の様々なところで国家を支えているんだということを忘れるなということであり、転倒してしまった社会のあり様を本来の当たり前の社会に戻せというメッセージなのではないかと思った次第です。

 ということで長くなってしまったので戯言はこれくらいにしますが、この作品では、その前半、いや3分の2ぐらいが、主人公である3名の若者たちの子どもの頃からのライフヒストリーが坦々と流されます。簡単に言えば、リアルタイムにおけるアメリカの子どもたちの暮らしです。そこには、今、アメリカが抱える様々な問題が凝縮されていました。そうした中で、次世代を担うアメリカの若者たちが何を失い、何を失っていないのか…。そして、どんなに後から人が作った教育とか軍隊とかというシステムを使い洗脳されようとも、失ったり失わせたりできないものがあり、そうした内発的な情動そのものが、アメリカ建国の志であることを今一度思い起こせというメッセージだったと思います。
 で、こんな感想を走り書きした後、これは日本の未来に対する予言的な作品でもあるなぁ~、と気づかされたのです。
 あと、エンターテイメント(アート)としての映画表現とか、表現活動としての政治性の話(資本主義)だとかもしたかったのですが、また今度の機会に…。(^^)/

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