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「反資本主義であるということ」

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 話の前提として、確認をしておかなければいけないことは、僕は日本語訳しか読めないので、翻訳の問題は残りますが、マルクス自身のテキストを読むかぎり、マルクス主義一般とマルクス自身の主張の意味は違うということを知っておかなければいけないと思います。例えば、マルクスは、資本主義と社会主義などを二項対立的なものと捉えてはいず、資本主義が高度に発展すると否応なしに社会主義的なものに移行(移行するメカニズムは弁証法的)すると言っています。さらに、彼自身はあまりはっきりとは、社会主義とか共産主義という言葉は使ってはおらず、社会の変容した形態の説明として表現しているに過ぎません。また、社会という言葉の意味についても、彼がそもそも経済学者ではなく、社会学者であったように国家の中にあるものではなく、国家の外にある人間にとってのコモンセンス的な時空であるという捉え方をしています。したがって、そこらへんのことを読み誤ると、最近の風潮から資本主義と社会主義は、二項対立的な視点から社会主義的な考えそのものはダメになったので、考える必要がないという雰囲気に取り込まれてしまいます。

 さて、最近のといいますか20世紀に入ってからの日本の社会、少し厳密に言い、戦後の日本社会は、急激に発展した近代資本主義社会であったと言っていいと思います。もう既に何度も書いていますが、資本主義発展のための2大要素は、「新市場開拓」と「技術革新」でした。当然のように、日本もこうした要素を繰り返し実現することによって発展を維持してきました。この仕組みは資本主義というシステムが構造的に持つものであり、資本主義的な発展を望むかぎり避けることはできません。
 そして、発展を実現する一方で、結果として否応なしに起きる要素もあります。例えば、それは未開拓な市場がたくさんある場合はよいですが、ある商品が市場に行き渡り市場が有限だった場合、次に商品を売るときは、市場を個体化(細分化)していくしかなくなります(当然、性能を上げるための技術革新も伴います。)。こうした市場の個体化は、商品を消費している消費者や商品を生産している生産者たちの精神面においても同様な個体化、すなわち精神の疎外化を引き起こすことは、これまた資本主義の本質でもあります。その他、資本主義の発展に伴う構造的な傾向として有名なものとしては、利潤率の低下などの問題もあります。
 どちらにしても、資本主義的な発展はよいことばかりではなく痛みといいますか、ある意味で次への社会的移行のための犠牲も孕むということです。しかしながら、資本主義的な既得権を持つ者たちは、こうした体制を維持延命するために、歴史的に見ても、同じような手を打ってきました。それが例えば、グローバル化であったり、ブロック経済化であったりします。こうした手の打ち方は、それほど新しいものではなく、資本主義発展の歴史の中では何度か繰り返されてきたことです。そして、その結果、特に近代の国家においては、個別化であったり、グローバル化などによって発する分裂化を防ぐために、国家の再統合ツールとして、ナショナリズムや福祉国家政策などを実施してきたのです。と、ここまでの流れは、国家が資本主義政策を採用し続ける限りは否応なしに繰り返される流れです。つまり、こうした流れの1つの終着点として、資本主義の発展に伴い結果として広がるであろう様々な格差(分裂)を緩和させるためには、どこかで、貨幣的な利益を含め豊かなになったものを国民などに一律に再分配する必要性が、これまた否応なしに出てくるのです。そうしないと国家を維持できなくなるからです。しかし、これでは富や権利を独占した者たちがそれを手放さねばいけなくなります。そのことを考えたとき、飽和してしまった市場などをリセットし再領土化する方法がとられてきました。それが、言わずと知れた「戦争」という方法です。特に、この方法は、その目的がそもそも一部の既得権益者のためのものですから、それを選択する正当性が低いわけです。したがって、日頃から国家がそうした選択をしたときに国民などが疑問を持たぬよう、教育などを活用して正当化の担保に力を入れていることも言うまでもありません。
 いじょうの前提を再確認しつつ、最近準備している来年の市民講座のことや、横浜・寿であったシンポなどで触発されたことを書き留めておこうと思います。

 今、来年開催予定の子ども・若者の居場所に関する市民講座において、僕が開催目的の問題意識の1つとして考え続けていることは、「居場所が、単に現社会に再適応させるための救済の場(再回収の場)にはなってはいけない」ということをどう伝えるのかということです。そんなことを考えているときに、毎年のフィールドワークで学生たちと訪れている横浜の寿のことを思い浮かべました。そこでの「学び」の意味については、今、他の文を書いているので、出来あがったらお知らせします。そして、先日、寿で行われたシンポジウムに参加する機会がありました。そこで聴くことができた、寿で長く活動されている石井さんや村田さんの話は、今までも何度か聴かせていただいていたのですが、今回はさらなる確信的な意識へと導かれる契機となりました。まだ、ちゃんと整理されていないので、とりとめのないメモ書きのようなものになってしまいますが、気がついた順に書き並べたいと思います。

 1つは、以前にも書いたのですが、強力に分裂化を進める現社会に対して、僕は、「今、寿のまちは、いろいろな人を集める場所だ。」と言いました。それ以来、僕の中では、寿が持つ人々を集める機能やら力とは何なんだろうと考えていました。その概観は、社会の構造的な作用によって個体化された社会から排除された人々が、寿が持つ包摂的な力に引き寄せられるのだろうというものでした。そうした検討をさらに進めるにおいて、今回のシンポにおける村田さんの話は非常に示唆的でした。「寿のまちは、単身者が中心でそれもドヤは究極に狭い空間です」、「寿の住人たちは、寿の自由さがいいと言う」、「依存症者は家族のもとにいるより、単身者でいた方が回復が早い」、「住人の多くが生活保護を受けている」「多くの装置でコントロールしようとしている」等。これらの発言を聴いたとき、僕がまっさきに思ったことは、寿は、現代社会におけるカウンターの場なのか、それとも発展の最先端の場なのかということでした。簡単に言い直すと、反資本主義の場なのか、超資本主義の場なのかということです。
 A面として、反資本主義の場であると見るならば、まさに戦後日本における急激な資本主義化による負の側面の記憶の場であると同時に、日本社会が失ってしまったものを告発し対抗し続ける闘争の場であるということになります。そして、今回のシンポによって新しく見開かされた部分は、B面です。2つめとしてまとめると…。
 寿のまちは、戦後日本における資本主義化された社会の成長点のように見えるということです。ある意味では最先端と言うべきなのか、資本主義というシステムがその発展形態として自然に生み出す形態の1つと言えるのではないかということです。こうした面で考えたときのポイントの1つは、寿の人々の多くは選択肢がなかったわけなのですが、資本主義の持つ本質的な機能によって、身体も精神も最終的な形として個体化された人々が、個々のイノチを確保する(生きる原動力としてのイノチを守ること)ために、寿という街に群体化し、そこで福祉共同体化し包摂力を回復し、自己決定権を再獲得していく…。こうした共同体(コミューン)は、所得の再分配、福祉社会実現のように見え、そもそもマルクスが言ったような社会主義的な共同体(社会)のようにも見えます。そして、寿の街が現社会における対抗の場ではなく、超社会のように見える一番のポイントは、寿の住民たちが結果として「自由」を再獲得している点です。本来、資本主義社会の大きな目的の1つは、「自由」の確保であったはずです。寿の人々が、より一層の市場化等に絡められないまま、ある意味で「自由」と「独立」を確保し続けている様は、むしろ、現社会の正統な発展形態であるように、僕には見えるのです。

 村田さんがおしゃった「良くしようとするのはやめた方がよい」、すなわち、コントロールしようとする装置に近づかない方がいいと言ったことの意味が、俄然、重みを増してきます。この視点は、僕たちが子ども・若者の居場所をつくり運営していくときの心構えとも共通してます(僕たちの場合のそうした意識を獲得するまでの経緯については、『居場所づくりの原動力』(松籟社、2011年)に書きました。)。
 
 寿のまちとのつき合い方も含めて、子ども・若者の居場所づくり等、僕たちには何ができるのかと考えたとき、まだまだ、途中の話しではありますが、今日までのところではっきりと言えることは、寿や子ども・若者の居場所から学ぶことや、彼らの自治権や自己決定権を保障するための支援はあっても、救済する意識によってコミューンに介入(再適応化)することは、再回収(再領土化)であり、消費することになるということを肝に銘じておく必要があると思いました。
 そして今後の展望の一部を妄想的に書き加えるのだとしたら、超資本主義的なコミューンとして成立したこうした場を、外からの圧力(抑圧的な/政治的なものも含め)などによって排除・解体などさせることのないよう、当事者住民やその他の市民が共に連帯をして代補的な運動を継続させていくことが大事だと思います。また、そうした仮説的見通しが正しいのだとしたら、資本主義に行き詰まった社会は、早晩そこに生きる多くの人々が自分たちのイノチを守るための活動によって、おそらく寿のまちや子ども・若者の居場所のような共同体/運動体へと成長していくことが予想されます。そして、そうした動きに対し、既得権益者を含む体制側は、最終的には「戦争」などという方法も含め、再領土化的(抑圧/排除)な政策を押しつけてくると思われます。そんな力に対する対抗のし方なども考えつつ…。と、段々いつも通り大きな話しになってきましたので、ここらで一区切りつけたいと思います。<(_ _)>

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