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『運び屋(THE MULE)』を観て

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 大好きな映画監督、クリント・イーストウッドの最新作『運び屋』を観てきました。今回の作品の楽しみだったことの1つは、彼自身の監督作としては、11年ぶりの主演作だったことです。主演と言ったって、彼は、御年88歳です。そして何年か前には、「今のハリウッドには、自分が演じられる作品がない」とまで発言し、俳優引退もほのめかしていました。その彼が監督そして主演です。これだけでも、僕の期待は否応なしに高まります。

 今回の作品は、アメリカで実際にあった話が基になっています。アメリカの麻薬密輸事件史上、最年長となる検挙当時87歳であった麻薬の運び屋レオ・シャープ老人の話です。この事件のあらましを物語として、レオにあたる役柄、劇中ではアール老人をイーストウッドが演じました。作品のあらすじやキャスト等については、実際に映画館に足を運んでいただくとして、いつものように感想と言いますか、想い浮かんだことをツラツラと記しておこうと思います。

 まずともかく第一印象は、アールの人生なのですが、第二次世界大戦後のアメリカの歴史を見ているような印象を受けました。その中身は、当然のようにアメリカ資本主義の発展と衰退ということになるのでしょうか…。ただ、本作を観て衰退なのかそれともある意味で、一層の発展(変化)なのかもしれないという気持ちも残りました。

 朝鮮戦争から戻った退役軍人のアールは、デイリリーというユリの花の栽培を専門とする園芸農家でした。彼は、新しい品種を開発し、全米で販売するなどして、その業界において名声と富を獲得していました。貨幣の獲得や名誉や情愛への欲望を満たすため、アールは人生の大半を仕事に費やしました。しかし、現在では、家庭を顧みなかった結果、家族を失い。IT化など業態の変化に対応できず農園も手放すはめとなっていました。
 ここまでの話で直ぐに分かることは、戦後資本主義発展の原動力とは、アメリカのみならずですが、貨幣の獲得や情愛の獲得であるとか、人間が持つ欲望(情動)であることがよく分かります。こうしたパッションのような情動(欲望)は、貨幣を獲得することが第一目的となってしまった資本主義発展の原動力ととても相性がいいわけです。しかし、一方でそうした成功は多くのものを失うことになります。家族(共同体性/包摂性)であるとか、貨幣では換算することができない価値によって結ばれている人間関係(愛)などです。このことは、退役軍人会や家族との関係を維持していくためにアールは、貨幣を獲得し続けなくていけなかったことからも逆説的ではありますが浮き彫りにされます。
 貨幣を獲得することを中心として成立している社会は、発展の余地(新市場等)がある時は、モノローグ的な社会であっても自身の存在を相対化することができます(地位や名声等)。しかし、市場などが限界となりもうこれ以上の発展が望めなくなると、そうした閉じた社会においては、国家や人の精神性などが分裂をしていきます。唯一、統合の拠り所(正統性・平等性の担保)であった貨幣が獲得できなくなるからです。社会の格差は広がり、人々の精神は分裂し病んでいき、不安と暴力が満ちた社会へと変わっていくことになります。
 こうしたアメリカ社会の変貌は、アールが関係した麻薬の搬送ルートが、メキシコからかつてのアメリカ発展の中心であった北米地域、いまやラストベルトと称されるデトロイトなどであったことからもよく分かります。精神を分裂させてしまった人々は麻薬を必要とし、格差などによって分裂をしてしまった国家は、ナショナリズムの先鋒であったトランプ氏を必要としたわけです。

 アールにとって物を運ぶことの意味は何だったのでしょうか。結果としてアール自身も再び貨幣を獲得することになるわけですが、彼の運び屋としての日常を垣間見ると、第一義の目的はそこにはないように見えます。アールにとって物を運ぶことは、たぶん麻薬でなくてもよかったと思われますが、彼自身が役に立つ存在、すなわち存在の意義を取り戻すための行為であったように思います。組織の連中と対話をすることで自分の知らない世界の知識を獲得しつつ、彼の存在の意義としての信頼などを取り戻していきます。物を運ぶ行為を繰りかえすことが、彼にとってはまさに社会的な運動(代補)となっていたのです。一方で、貨幣を獲得することが第一義である麻薬組織は、そうしたアールの自身の存在証明を望む彼の本性的な欲望すらも貨幣を獲得するための新しい市場として回収していきます。貨幣を獲得することを第一の目的とし、その原動力として人の持つ欲望(情動)を利用するのは、社会の表の組織であろうが裏の組織であろうが関係ないわけです。貨幣獲得に対する果てしなき欲望、こうした欲望を果たすために人は手段を選ばず突き進むと言いますか、暴走し続けることになります。アールもそうでした…。自身の存在の意義を取り戻し、合わせて貨幣も獲得できる暮らし、そうは簡単には手放すことはできなくなります。ある意味で、仕事中毒であった昔に戻ってしまったのです(再領土化)。

 そうしたアールを正気に戻したのが、家族の「愛」と「法」でした。貨幣では獲得することのできない家族だけが持つ共同体性や包摂力や、暴走の抑止となる法がアールが亡者となることを押し止めたのです。中でも法への信頼、言い換えれば民主主義への信頼をイーストウッドは、彼の作品の中でいつも明らかにします。彼は暴走する欲望をコントロールするためには、法が必要なことをよく知っています。そして、健全な資本主義を維持するには、法による公平性が必要なこともよく知っています。逆に言えば、近代以降の民主的な国民国家では、暴走を抑止するための役割を与えられた法を信頼し尊重することが大切であることをよく理解しているのです(立憲主義等…)。
 アールも素直に法に従うことを選択します。貨幣を獲得し続けなくてはいけないと、まさに麻薬中毒(貨幣中毒、んっ、貨幣獲得を第一目的とするような資本主義自体が麻薬なのか…!?)のようになっていたアールも、収監されたことによって貨幣獲得の日々とは切り離された穏やかで安心安全(自由で平等)な日々を取り戻したように見えました。刑務所で花栽培にいそしむアールは、自身が本来いるべき居場所に帰ったような穏やかな表情をしていました。

 ということで、映画を観終わって、今までのアメリカ的資本主義の発展ということであれば、行き詰まった貨幣獲得的な発展を再び行うために、戦争などによってリセット(再領土化)し、幻想的ではありますが、再びの発展を演出することになるわけなのですが、この映画では、貨幣を獲得することが第一目的ではない次のステージとでもいいましょうか、穏やかで自由で平等な社会が必要なのではないかという提案のようにも見えました。さて、現在のアメリカ社会は、イーストウッドが考えるようなより成熟した社会を向かえることができるのでしょうか…。
 と、おおまかに今回の作品を観て思いをめぐらせたのでした。あっ、そして最後に考えたことは、イーストウッド氏のような映画人というか表現者がい続けているアメリカ、このアメリカにあって、日本にないものとは何なんだろうと、考え続けることとなりました。それは、薄ぼんやりとではありますが、主権者意識なのではないかと思った次第です…。いつもながら、いろいろと考えさせられるイーストウッド監督作品でした。(^^)/

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