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不可能なもの

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 僕の活動フィールド1つである教育の分野において、僕が注目し続けていることが、「教育不可能性」です。教育というゲームに参加するためのコードが、「教育可能性」であることは、多くの人が認め理解するところだと思います。すなわち、教育をすれば、立派な人間になれるはずであるということです。さしずめ資本主義社会的な視点から言えば、たくさんのお金が儲けられる人になるということです。そうした教育の世界において、僕ははなから、「教育不可能性」に目が奪われる人でした。「教育不可能性」とは、人は教育できない、そもそも持っている素晴らしい資質があるはずだというもので、僕が考える教育とは、そうしたその人ならではの持ち味や才能が発揮できていないのだとしたら、それを阻害しているものを取り除き、そして引き出すものです。
 教育というシステムが、歴史的な概念、すなわち人間が作り出したものであるいじょう、システムの中にある不可能性に注目をすることはとても重要なことです。ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく、パーフェクトに機能しているように見えるシステムであればあるほど、そのシステムは不完全な部分を必ず含んでいることになります。こうした傾向は、何も教育というシステムだけではありません。民主主義というシステムであれ、宇宙というシステムであれ同様です。

 さて、こうしたシステムの中に含まれる不完全性であるとか、不確定性などに注目をして、そうした事象の存在を顕かにしていくことにはどういった意味があるのでしょうか?
 1つのシステムといいますか制度のようなものが完成をし、一度動き出せば、そのシステム内においては、単一的なコード(規則)に則り秩序が構築されていきます。言い方を換えれば、1つの価値観を前提として階層的な秩序が作られていくことになります。「教育可能性」で言えば、貨幣を獲得できる能力を多く身につけた者ほど、その階層の上位を占めることになります。そうした中で、あえてそのシステムが持つであろう矛盾している部分、すなわち不完全な部分を指摘するということは、そのシステム内において自明だと思われている価値観などが、決して全てに適用されるものではないということを証明することになるわけです。意味的には、180度違うものも存在しうることの証明にもなるわけです。そのことは、今まで築いてきた階層秩序的な価値観を転倒させるものとなるのです。 
 例えば、学校というシステムが、必ず通うものであるというコードによって運営されているとします。なので、ふつうは休まず通ったり、遠くからでも通ってきたりする姿勢というか熱意が奨励され賞賛されます。そこに、不登校をする者が現れたとします。すると、学校とは必ず通うものであるという前提的コードが崩れます。さらに、積極的に登校しないという意思表示は、そもそもの学校や教育の意味や目的、そして学ぶことの本質などを問わざるを得ない状況を作りだすことになります。つまり、価値観の転換、もしくは、拡張を促すことになるわけです。こうした行為が、今までにあった社会観や世界観の変革の契機になりうることを意味しているのです。

 このような行為のことを、デリダは脱構築と呼びました。逆に言えば、あるシステムや構造の中に、矛盾を孕む不完全や不確定な部分があることが見つけられるのであえば、そのシステムや構造は脱構築可能であるということになります。すなわち、脱構築的な行為をすることによって、そのシステムや構造の変革を促すことが可能であるということになります。

 今、僕たちの国では、様々なシステムにおいてそのほころびが目立つようになってきました。その事実を曝き続けることは、まさにそのシステムを変革させるための脱構築的行為となるのですが…。一方で、そうしたシステムを確立したことによって利益を獲得している者たちは、なんとしてでも、自分たちの利潤を生みだすそうしたシステムの維持延命に力を注ぐことになります。多くの場合はむしろそれがふつうですが、もし、政権側がそうした利益の恩恵を受けている者たちの代表や自身たちで構成されている場合は、当然のように不完全性を曝く者たちを排除し、さらには彼らを再コード化し回収(再領土化)するための政治力を強化することになるでしょう。

 今週、ちょうど若者たちとの対話の中で、少子化対策の話しが出ました。歴史が証明している事実ではありますが、未来が明るく、将来に夢が持て安心安全に暮らせることが保障されていれば自然と子どもの数は増え、人口も増えます。今、まさにそうではないということは、国民の多くが未来に対して大きな不安を持っているということになります。こうした事象もある意味では、社会システムの中にある不完全性の顕在化であり、不安があることを曝き続けるということは、社会の価値観の変換を促すことに繋がると思われます。小さいことかもしれませんが、声を上げ続けることの大切さを思い続ける日々です。不可能性・不完全性・不確実性に気づくのは、いつの世も少数派なので…。

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