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加担はしたくないのです。

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 6月23日が近づくと、自然と若者たちに沖縄の話しをする機会が多くなります。いろいろな話しをするのですが、沖縄の人々が、基地の存在を反対する理由の1つとして、市民を殺す戦争に加担し続けるのは嫌だ、というのがあります。自身も戦争による実際を経験してきた沖縄の人々、自分たちの故郷にある基地から戦争がある度に、市民を殺戮するための機械や人が派遣されていく…。そうした基地の存在を許し続けることが、ある意味で、そんな戦争遂行に自分たちも加担し続けているのではないかと、自責の念を抱くことに繫がるのは、人としてごくごくふつうの意識だと思います。多くの日本の人々が、こうしたふつうの気持ちを失ってしまったとは、あまり考えたくはないのですが…。

 実は、僕が教育・社会的分野で活動している原動力の1つとして、加担したくないという気持ちがあります。どんなことに加担したくないのかと言えば、それは自身の生命も含め、他者のイノチを奪ったり、奪わせたりすることに加担したくないというものです。確かに、特に人間は身勝手で、自身が生きていくためには、多くの生き物のイノチを奪いながら生きてしまっています。さらには、細分化された社会の中では、自分が何気なくした行動が原因で、遠くのどこかのイノチを奪ってしまっていることも多くあるでしょう。
 それでも僕の意識の中では、極力イノチを奪うことはしたくない、特に、人間が人間自身の都合によって作り出してしまった、例えば、貨幣の利益などを守るために起こす戦争などという行為は、もしくはそこに繋がるようなことは、無くしていきたいと常々思っているのです。おそらく、戦争という行為は、自然の力による破壊とは違い、人間自身が作り出した破壊であるいじょうは、人間による働きかけにより無くすことができるはずだと信じています。貨幣の獲得や保持を目的として、嘘の大義を掲げつつ、人のイノチも奪い、自然も破壊し、全てのものの存在の根本として大事な生命一般の根拠をも断絶させるような行為に、自身が加担したくはないし、多くの人々、特に子どもや若者たちには、加担させたくないと思うわけです。大きなお世話なのかもしれませんが…。
 逆に言えば、自分のある考えや行動が、イノチを奪うことに手を貸しているのを知らないのだとしたら、それは無知だったとは言え、人間の驕り以外の何ものでもないと思うのです。

 しかし一方で、最近はそんな僕の想いとは裏腹に、近代以降の人間世界における戦争のような事象は、勝つとか負けるとかは関係なく、定期的に行き詰まる経済的発展を解消するためのリセット機能として、システムに織り込まれている(プログラム)ものなのではないかと思ってしまいます。つまり、発展を第一と考えた場合、戦争という機能は不可避なもので、それが前提とすれば、その他のサブシステムは、その機能の作動正当化のために準備され使われるようになると言うわけです。そうした場合、戦争などというプログラムを正当的に作動させるには、上述したような人間の本性としての例えば、イノチを剥奪したくないというような内発的な情動は、やっかいなものになることが予想されます。特に、呵責の念のもととなるような意識は意図的に隠蔽させることになるでしょう。簡単に言えば、「自分たちが生きていくためにはしょうがない」と、正当化の意識を上塗りし続けることになり、その装置の1つが、教育だったりすると思うのです。

 ゆえに、とりあえず僕の活動フィールドについて言えば、鉄人28号のリモコンではありませんが、誰がどういう考えに基づいて、教育というシステムを稼働させるのか、相当に大事なことになるわけで、どうにかして取り戻す、もしくは、さらに上書きするプログラムを既成のシステムの中に埋め込むか、そんな闘いを日々しているつもりなのですけれど…。人々の貨幣への欲望を原動力として、自動的に稼働し、サブプログラムを含め、再増構築するようにプログラミングされている既存のシステムは巨大でかつ巧妙であると、言わざるを得ません。まぁ、僕の場合は、同じ欲望でも「学びの欲望」を原動力としているので、簡単には止まらないですけどね。(^_^)v

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