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FW沖縄2015-1

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 今年も始まりましたフィールドワーク沖縄。今年のフィールドワークは、2つのチームを迎え、1週ずつ2週にわたり実施をすることになりました。とにもかくにも、沖縄について学ぶこと、沖縄を通じて日本や世界について学ぶことの機会を多くの若者と共有できることは、たいへんありがたいことです。なかには、既に常連となり、毎年の定点観測を行ってくれている人もいます。私たちを巡る社会の変化などに対して、意識を向け続けることは、とても大事なことだと思っています。
 ということで、沖縄にかぎらずですが、フィールドワークを行うことの大事な点について、毎年の繰り返しになりますが、もう一度、確認しておくことにします。フィールドワークの大きな特徴は、やはり、現場に立つということで、まさにアクチュアルな時空において生活者としての共時的な視点から、「見えないものを観る」「聞こえない音(声)を聴く」ということにあります。そして、私たちの場合、そうした力をつけ実行するための術として「対話」という手法を重視しています。したがって、今年のフィールドワークも沖縄における「対話」の旅であることは言うまでもありません。
 では、今年の旅を紹介していくことにしましょう。紹介と言っても、今年は2チームで行った関係上、各々の詳細を書くとたいへんな量になってしまいますので、2回のフィールドワーク中における印象深かったことを中心として書き残すことにします。したがって、時系列等は前後していることをお許しください。
 約5日間をかけた今回の旅は、大きく分けると4つの旅から成り立っています。第一の旅は「沖縄戦を辿る旅」、第二の旅は「沖縄精神史を紐解く旅」、そして、第三の旅は「沖縄米軍基地を知る旅」、最後に、「沖縄文化に触れる旅」となります。

〈沖縄戦を辿る旅〉
 第1日目というか、沖縄に飛行機で来るとき、多くの場合は、那覇空港に到着するわけなのですが、羽田空港などとはだいぶ違うことに多くの人は気づくはずです。それは、民間機が離発着をする滑走路の脇には、多くの軍用機が停まりタイミングが悪いとスクランブル発進による戦闘機の離陸などによって離発着を待たされるときがあります。沖縄における空からの表玄関である那覇空港は、軍民共用の空港なのです。ということで、沖縄という地に足を踏み入れると同時に、否応なしに軍事のこと、基地のことなどを考えざるを得なくなるのです。ただ、こうした軍事や基地による影響は、何も沖縄だけのことではないことを同時に想起しなければなりません。例えば、空域の問題などを見てみればば直ぐ分かるように、米軍基地と呼べる所は何も境界がよく分かる地表だけでなく、空や海にもその領域は広がっています。そうした空域が神奈川や東京の上空にも広がっていることも知っておかなければいけないと思うわけです。特に米軍基地と呼ばれる区域内では、ある種の治外法権的な区域となり、そこでは国民の安全を保証しているはずの日本の法律なども準拠されません。
 さて、沖縄戦を辿る旅をするとき、多くの場合、米軍が沖縄島に上陸した地点を見ることができる場所からスタートして、彼らの進軍と同時に皇軍の退却ならびに県民が避難したルートを辿りながら南下していくことになります。そのスタート地点として、いつも嘉数の丘を選びます。嘉数公園から見渡す風景からはいろいろなことが気づくというか、思い起こされるに違いありません。特に、沖縄戦開始から戦後までの時間の中で眼下に広がる地域に刻み込まれたはずの様々な歴史が立ち上ってくるはずです。沖縄戦時、丘の麓の地域は米海兵隊の戦史にも残るほどの激戦地区となったというが、住んでいた住民たちは、どうなったんだろうかだとか…。現在は、眼下に広がる市街地の平らで広い場所に普天間基地が居座っていますが、もともとは、住民がどのような暮らしをしている場所だったんだろうかとか…。そして私たちは、南へと下っていきます。首里の陥落を前に、たいへんな激戦の場所となったシュガーローフは、今はおもろまち新都心ということで、大型の店舗が建ち並ぶ近代的な街となっています。戦後は米軍の基地として使われ、返還をされた後、新しい街へと変貌したわけなのですが、今でも不発弾の処理や遺骨の収集などが行われています。確かに基地返還と言うと、基地時代にはない経済効果や何より安全な暮らしが取り戻せはしますが、米軍は何ももとの状態というか、直ぐに使える状態で返してくれるわけではないので、造成であれ区画整理であれ取りかかる前に相当な時間と準備が必要となるのです。
 首里以南の南部地域は、ありとあらゆる所に沖縄戦による爪痕が残されています。壕に立ち寄ったり、平和の礎やひめゆりの塔を訪れたりするわけなのですが、途中、昼食にはステーキ屋さんに寄ったりもします。フィールドワークにおいて、特に、過去の記憶をより明確に読み取るには、その当時から繋がる時の流れの中で存在する現在の暮らしをも対比的に観ておくことも大事なことになります。過去の出来事が積み重なり現在の事象が顕れているとすれば、現在起きている事象をも含めた社会や歴史や文化をアクチュアルな視点で観ることが必要となります。そうした見方、聴き方ができてはじめて今や過去の意味が理解できるようになるはずです。事象をアクチュアルな視点で観る。言い換えれば、物事をコト的な視点で観る。こうした作業に欠かせない力が想像力です。想像力と創造力、合わせて構想力とでも言うとよいかもしれませんが、そもそも、人が本来生きるために持っていたはずのこうした能力は、世の中の近代化とともに紛れてしまったに違いありません。フィールドワーク学習の目的の1つは、こうした構想力などを取り戻すと同時に養成していくことにもあります。さらに踏み込んで言えば、こうした力を持つ人間たちが、社会や歴史や文化を作ってきたことを自覚しながら、目をこらし、耳を澄ますことが大切になるのです。学術的な言い方をすれば、現象学的な視点ということになるかもしれません。
 南部を中心とした沖縄戦を辿る旅の中で、印象に残らざるを得ないことが、戦時における軍隊や政府(戦後も含め)のあり様です。軍隊を持つということ、戦争をするということの実体がここに明確になります。昨今の日本では、国の安全保障というと、簡単に軍事力による抑止論的なものが主張されますが、太平洋戦争における経験を多くの方々は忘れてしまっていると言わざるを得ないと思います。そうした忘却された事柄の中でも、沖縄を訪れると繰り返し思い知らされることは、当たり前の帰結ではありますが、「軍隊は国民を守らない」ということと、「政府は、平和を守るための戦いだと、教育などを使い戦争を正当化する意識を巧妙に国民に刷り込む」ということです。そして、戦後においては、そうした政策を支持した国民にも責任があるかのような贖罪の感情を作り上げることです。
 昨年来、政府は集団的自衛権行使の容認へとその舵を取りました。やれ、切れ目のない安全保障のためだとか、米国との関係強化だとかと耳触りのよい言葉を並べていますが、簡単に言えば、戦争をできる国にするということです。どのような形や理由であれ、戦争をするということの意味を思い起こさなければなりません。その全ての実体の記憶がここ沖縄には刻み込まれています。嘉数の丘に、シュガーローフに、十字路に橋に、壕に、魂魄の塔に、摩文仁の丘に、韓国人慰霊塔に、平和の礎に、ひめゆりの塔に…。見えないことを観、聞こえない声・音を聴きと…、目を凝らし、耳を澄ませ…。

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