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沖縄県知事選挙2014

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 沖縄県知事選挙が近づいてきました。今まで行われてきた様々な選挙の中でも、今度の沖縄県知事選は、沖縄県としての民意は当然として、日本全体の未来を展望する選挙になるような気がしています。そこで、今度の選挙がどういった意味を持つのか、僕なりの視点から考えてみることにしました。今回の沖縄での選挙の意味について考えたとき、僕の頭に浮かんだキーワードは、民主主義でした。正確に言えば、近代民主主義ということになります。沖縄も含め、日本にとっての近代民主主義のあり様が、問われるのではないかと直観的に思ったのです。今回は、なぜ、そう思ったのかの理由を思いつくままに書き留めておこうと思います。

 いわゆる近代民主主義という仕組みは、欧米出自の輸入システムであったことを、私たちは認めざるを得ないと思います。したがって、そもそも、特に出自元であるヨーロッパにおける近代民主主義の特徴というか、基盤となっていることを再確認しておく必要があると思います。ただ、再確認をすると言っても範囲を広げると収拾がつかなくなるおそれがあるので、とりあえず、民主主義の仕組みを支えていると思われる中心的概念を1つだけ取り上げて考えることにしました。その概念は「自由」です。民主主義という仕組みにとって、この「自由」という概念はなかなか取り扱いにくい概念であることは、多くの方は知っているはずです。簡単に言えば、民主主義と「自由」は、そもそもは相性が悪い、むしろ、反駁し合う概念であったからです。その反駁し合う概念をどうにか折衷させたというか、正当的に両立させたのが近代民主主義ということだと思います。今回は、民主主義と自由主義との関係経過についての説明には深入りせず、近代民主主義において、「自由」は重要な基底概念であると位置づけ、近代民主主義全体の構造について、「自由」という概念をキーワードにして少しばかり考えてみたいと思っています。

 ということなので、少し途中をはしょりますが、ヨーロッパにおける近代民主主義という仕組みに組み込まれている「自由」という概念をどのように見たらよいかということから、話しを進めていこうと思います。近代ヨーロッパにおいて「自由」という概念を考えるとき、1つの参照者としてカントを無視することはできないでしょう。カント的な視点から考えれば「自由」は、哲学、すなわち科学的に検討する対象ではなく、全ての人間が彼らが言うところの絶対的な他者である神から与えられた本性(本能)的な能力の1つであるということになると思います。したがって、そもそも人間が平等に与えられている自由という本性の生起を保証されていないとしたら、自由を発揮することを阻害している精神的なものであれ、物理的なものであれ取り除くことが必要となるのです。

 まずは、精神的といいますか、意識的な部分の話しからしましょう。「自由」の意識を取り戻すというか、獲得することは、他のところでも書きましたが、自律的な精神を獲得する、すなわち、立派な人間になることを意味します。精神的な分野において、頽落してしまっていると思われる「自由」の意志を人々に取り戻させるためには、教養主義的な教育が必要であることは以前、どこかでも言いました。つまり、この文脈においては教育というものは、既に神によってより人間らしくなるために与えられている要素を顕在化させるためのものとなります。ここのポイントは、唯一の創造の主である神によって作られた、既にあるものの顕在化であるという点です。

 この流れから、次にシステム的(制度)な話しを付け加えると、欧米出自の近代民主主義というシステムは、上述したような欧米出自の近代教育というシステムと同様に、絶対的な他者であるところの神によって全ての人間に与えられた「自由」を実現保証するためのシステムであるということを忘れてはならない点です。特に、ここでいう絶対的な他者であるところの神とは、欧米の場合は、キリスト教的な神であることは言うまでもありません。この前提、すなわち、欧米的な近代民主主義は、キリスト教的な神の存在を前提とした制度であるということになります。アメリカの民主主義などを見ても、このことはよく分かります。

 さて、こうした特徴というか性格を持つ近代民主主義という仕組みを近代以降の日本は、輸入をし根付かせようとしました。おそらく、太平洋戦争の敗北で、より一層、アメリカ型を中心とする欧米型の民主主義を強力に戦後の日本に適用させようとしてきたに違いありません。そうしたとき、欧米型の近代民主主義を機能させるための前提として必要なものは、ある意味では、システム稼働の原動力なるべく絶対的な他者としての神の存在、特に欧米型であれば、キリスト教的な神の存在だったのですが、一般の日本人は、こうした神に相当するような絶対的な他者観を持ってはいませんでした。しかしながら、民主主義というシステムを効率よく稼働させるためには、これに準じたものが必要であったのは言うまでありません。神なきままにスタートした戦後日本の民主主義は、欧米型の民主主義を効率よく稼働させるためにどうしたのか…。

 意識的に据えたのか、流れとしてそうなったのかは分かりませんが、戦後の日本では、民主主義というシステムを効率よく稼働させるために必要であった、普遍的な力としての原動力であると言ってもよいと思われる絶対的な他者としての神の代替物として、資本主義社会における理念と親和性の高い「貨幣」を置いたのです。つまり、貨幣を絶対的な他者とした日本型の民主主義を確立していくことになるのです。言い方を換えれば、貨幣を絶対的な神とした新たな天蓋教的な宗教を作り出したと言えるのかもしれません。この日本独特の資本主義/民主主義は、欧米のような宗教などによる道徳・倫理観に縛られないだけに、暴力的に人々が持つ、特に、物質的な物への欲望を満たすための日本型民主主義/資本主義となって定着していくことになるのです。そして、いつしか教育をはじめとする国内の多くの制度が、常に貨幣の存在を強く眼差す仕組みへと変化していくことになります。本来、人々が本性的に持っていた自由だとか平等とかという意識を保証するための民主主義という制度であったものが、いつしかその目的というか機能が転倒し、貨幣獲得ありきの価値観が当たり前であるという意識の正当化の拠り所となると同時に、システムの目的が転倒していることに気づかない人々の再生産を支援するものとなってしまったのです。

 このようにして、特に、戦後の日本に定着をした欧米近代民主主義風、日本的民主主義は、細かい部分はまだまだ言い足りないのですが、大雑把にまとめると、貨幣の存在を絶対的な他者とした日本型民主主義なのではないかということです。

 欧米型近代民主主義は、確かにその前提として絶対的な他者としての神の存在がありますが、神によって創り出された自由などの価値は、人間の手による科学的な操作によっては変質させることのできない普遍的な存在として共通に了解されています。したがって、欧米型近代民主主義は、人間が関与することのできない歯止めがある。しかし、戦後日本の民主主義には、欲望のみによってその存在を担保されている貨幣が神であるがゆえに、強い原動力を発揮するかわりにその拡大に歯止めはないわけです。結果として、民主主義の稼働の形態において、常に、いのちを保証することよりも貨幣を獲得することが優先されることになるわけです。原発事故後の日本とドイツの政策の違いを見れば、このことはよく分かります。

 前置きが長くなりましたが、今度の沖縄県知事選挙は、本稿の流れから言うと、日本的民主主義と沖縄民主主義との闘いということになるわけですが、では、前述したような日本的民主主義と沖縄民主主義は何が違うのでしょうか。確かに、沖縄も日本同様に近代になってから民主主義という制度を輸入したという経過は同じです。1つ1つのことを細かく実証していくことは本稿ではできないのですが、いくつかのポイントを思いつくままに拾い上げると、「版籍奉還なき廃藩置県であったこと」、「アメリカ軍による占領を経験したこと」、「戦後の日本型民主主義に曝されたこと」などなど。これらのポイントがどういうことなのかというと、まずは、そもそも琉球・沖縄の島嶼地帯には、島々独自の絶対的な他者観念が存在していたということ、次に、日本から切り離されたことによって、アメリカ民主主義と対峙する意味で、自分たちの民主主義を確立し質を高める必要があったこと、日本国憲法の存在などから、自分たちより正統性の高い民主主義だと思っていた日本の民主主義は、基地問題等のやり取りを経験する中で相当に頽落(目的を転倒している)したものであると気づかされたことなどとなります。

 まとめると、「沖縄民主主義は、欧米型民主主義がその存在の前提として必要とした絶対的な他者としての神に相当するものとして、一般の人々の意識の中には、自然(生きること・いのち)の存在が既にあり、そうした『いのち』の概念を民主主義の原動力とすることは、ある意味で、欧米型の民主主義のあり様より正統性が高いということを理解している」ということなのではないかと考えています。こうした沖縄民主主義の特質について考えるとき、阿波根昌鴻さんや瀬長亀次郎さんたちの闘い、そして辺野古などで続けられている運動、これらの闘いや運動が、「いのち」を守るためのディアローグ的な対話を中心とする闘い・運動であることを忘れるわけにはいきません。そうした積み重ねが、同じ輸入された民主主義であったにも関わらず、日本とは違う、ある意味で欧米型民主主義をも乗り越えた沖縄ならではの「ラディカル民主主義」を育てたのではないのかということです。

 ということで、重ねてになりますが、今度の沖縄県知事選挙は、貨幣を獲得することを原動力とする日本型民主主義と、「いのち」を守ることを原動力とするラディカル民主主義である沖縄民主主義との闘いであり、さらには、日本における民主主義というシステムの未来におけるあり様をも占う意味(転機になってほしい)を持つものだと考えています。民主主義の闘いという視点から今度の選挙を見てみました。
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