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ゴジラはなぜ日本に

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 ゴジラはいつも、なぜ、日本に来るのか…。不思議なので、少し考えてみました。

 まず、直ぐに思い浮かんだことは、元々は鰻なんじゃ…。今回のゴジラを見ても、最初、大人になる前のゴジラは、鰻のような顔つきだと思いました。南方のどこかで生まれた鰻が、日本の河に戻ってくるように、世代が変わる度に日本へと戻ってくる。

 次に考えたのが、好物がある。で、何が好物なのか…。それが主食というわけにはいかないとは思いますが、放射性物質、イメージ的には、それが天然物というよりは、廃棄物といいますか、使った後に出る系のやつですね。これがあるところをゴジラは本能的に目指す。

 これだけの要素で物語を組み立てると、元々、日本周辺を生活圏としていた鰻が、回遊し南方海域で卵を産み孵化するという過程において、卵の段階か稚魚の段階かは不明ですが、核実験の影響を受け突然変異し、成長するにつれ、大人になるために必要な高エネルギー源である放射性廃棄物のある所に回帰する。この物語は、今回のゴジラにとってはそれなりに説得力があります。
 それは、どういうことかというと、フクイチの事故により、北関東全域に降り注いだ放射性物質は、その後、その多くが風雨によって河川へと運ばれ、一部はその河口流域である東京湾に堆積、また、一部は太平洋へと流れ出たことでしょう。
 そうです、鰻が故郷の河川を目指すよう、自分の故郷の水の匂いというか、組成をかぎつけ遡ってくるように、ゴジラも長く帯のように繋がる放射性物質の流れのより上流を目指し戻ってきたことになるのではないでしょうか…。そうした意味では、まったくもって、3.11後の日本の人々にとっての警告ということになります。おそらく、北関東や東京の汚染は一様に残り、東京湾等に点在するであろうホットスポットでは、高濃度の汚染が定着しつつあることでしょう。これといった落としどころのないリアルな話です。

 この話は、もう1つ裏の話にも関係しているかもしれません。それは、アメリカとの関係です。今回の映画でも出てきましたが、アメリカというか米軍は、日本に世界のためとはいうものの、3度核爆弾を落とすことを躊躇しません。その意味は、アクチュアルな話です。ゴジラ誕生の契機ともなった、南洋諸島での核実験に際し、アメリカは、季節風の関係では、日本にも多くの放射性ブルームが到達することを予想していました。そうした放射性物質が、人間にどのような影響を及ぼすのか、広島・長崎の調査分析から、核爆弾爆発後の放射性ブルームの影響、特に内部被曝の影響は無視できないことに感づいていたアメリカ(米軍)は、日本の各地にモニタリング施設を作り放射線濃度等を観測します。はからずもそうした施設がフクイチの事故のときには役に立ち、事故後いち早く米国関係者は、80㎞待避を実施したわけです。つまり、日本は今でも占領地というか、軍事的戦略の実験地であり、その扱いが変わったわけではないということです。この関連では、いろいろと言いたくなる場面は多々ありましたね~、石原某が演じていた米軍高級将校(大統領特使)?、まさにSOFAステータス!!! こうした意味では、ゴジラは占領下の日本を思い出させ、自主独立を促す革命児なのかもしれません。
 
 では、次に象徴的な意味で、ゴジラが日本に来る意味を世界観的に考えてみたいと思います。何年毎というか、季節毎に日本にやって来るゴジラはまるで台風のようですね。地震保険ならず怪獣保険っていうのが、日本には必要な感じではあります。そんな度々のゴジラの来襲を見ていると、直ぐに思い出すのは、ベンヤミンのことです。特に、彼が書いた「暴力批判論」は、ゴジラ論として読み替えることが可能なのではないかと思わせます。おそらく、ゴジラは、当著に出てくる神的暴力だと思われるからです。もし、ベンヤミンがゴジラの存在を知っていたら、神的暴力の解説の1つとしてゴジラの来襲を上げたことでしょう。ゴジラの存在を知らなかった彼は、神的暴力の規範的例として、コラの一党に対する神の裁き上げます。彼によれば、神的暴力とは、コラの一党に対する神の報復そのものだと言うのです。一瞬にして全てを焼き尽くす紅蓮の炎のような報復、それこそが神的暴力そのもだと…。やはり、ゴジラが口から放射熱線を吐くとき、日本の人々よ目を覚ませと活を入れられるように感じるのは私だけでしょうか…。ともかく、ゴジラの来襲は、ベンヤミンが言うところの自然の摂理による神的暴力だとすると、彼のいう神的暴力の特徴とゴジラの所作による特徴というか意味が重なります。

 「暴力批判論」にある神的暴力の特徴を上げると、「あらゆる領域において神話には神が対立するように、神話的暴力には神的暴力が対立する。しかもこの対立は、神的暴力を、あらゆる点において神話的暴力に対するものとして特徴づける。神話的暴力が法措定的であるのに対して、神的暴力は法破壊的であり、神話的暴力が境界を措定するのに対して、神的暴力は限りなく破壊し、神話的暴力が罪を負わせると同時に贖罪を負わせるものであるのに対して、神的暴力は罪を浄めるものであり、神話的暴力が脅かすものであるのに対して、神的暴力は有無を言わせぬものであり、神話的暴力が血なまぐさいものであるのに対して、神的暴力は無血的に致死的なものである。」(ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」『ドイツ悲劇の根源 下』浅井健二郎訳、筑摩書房、1999年、270頁)と書かれています。文中に出てくる神的暴力に対立するもう1つの暴力である神話的暴力とは、法的暴力のことを指し、私たちの日常、すなわち、国民国家内における世界は法的暴力の圏内ということになります。神話的暴力を簡単に言えば、後から人間の手によって作り出されたり規定された暴力ということになります。それに対して神的暴力は、どこから来て何が目的で行使されるのか、人間の思考の中では想像できない、まさに人間の想定外の力ということになります。映画の中でもゴジラの存在は、人間社会における法的暴力、すなわち法規定では一切を規定することができないものとなっています。そして、人間が自分たちのために作り上げた法的暴力の世界(国境とか)にゴジラはいとも簡単に侵入し、法的暴力(憲法をはじめとする法律とか)を無力化していきました。映画は最初から最後まで、神話的暴力の行使者である国家と神的暴力の主体であるゴジラとの闘いが、様々の領域において繰り広げられていたわけです。

 ベンヤミンはさらに言います「神話的な暴力は、たんなる生に対する、暴力それ自体のための、血の暴力であり、神的な暴力は、あらゆる生に対する、生ある者のための、純粋な暴力である。神話的暴力は犠牲を要求し、神的暴力は犠牲を受け入れる。」(同上、271頁)「たんなる生」とは、生きる死ぬというとき、多くの人間が直ぐに思い浮かべるであろう、一代一代の生命を指します。それに対して、「あらゆる生」とは、地球というか宇宙において生命(いのち)が誕生してから、今まで、ただの一度も途絶えることなく続いてきた生命(いのち)一般を指すものです。映画で言えば、より強力な軍事兵器を行使して、今だけを生きている自分たちの生命を守ろうとする行為それ自体が神話的暴力と言えます。一方で、自己の生命を神話的暴力の行使者たちに差し出すことによって、彼らがしがみつき正当化してきた掟が、何ら根拠のないものであることに気づかせると同時に、内省させ自分たちの存在とは生命一般の根拠によって保障されているのを理解させることで、彼らの罪を浄めようする…。やはり、ゴジラは神的暴力の主体であることがこのことからも明らかになるわけです。映画の最後の場面において動かぬゴジラと人間たちのやりとりは、価値観が転倒してしまった近現代社会のあり様を元に戻すための代補的運動となるのです。そして、この代補的な運動は、劇中において繰り返されるゴジラのテーマ、おそらくその込められた隠喩的な意味の繰り返しと共に差延されていくのです。

 「天災は忘れた頃に来る」、地震学者であった寺田寅彦さんが言ったといわれているこの言葉は深いです。天災、すなわち神的な暴力の1つであると思われます。おそらく、人間が驕り高ぶり生命一般の根拠をないがしろにし続けると、人間世界は、宇宙(自然)の摂理によって生かされているという正統的なあり様に、神的暴力の発動によって自動的に引き戻されるということを意味しているのです。特に、日本という国は、そうした摂理の繰り返しであると言えるでしょう。つまり、日本の社会が物質的欲望などばかりを優先し、人としての存在の意味を見失い続けると神的暴力が自動的に発動され、私たちの頭に鉄槌が下されるのです。実は、昔から日本の人は、そのことをよく知っていたと思われます。ときに、「地震、雷、火事、親父(大嵐・台風のことです)」と言われます。これは、四大神的暴力か…、なんて思ったりします。ということで、今年、ゴジラが戻ってきたのは、1つの警告であると気づいてほしいものです。

 要注意!!!「ゴジラは忘れた頃にやって来る」。

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