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自分のことは自分で決める

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 沖縄に通うようになって、沖縄に来るとよく空を見るようになった。理由の1つには、沖縄の空はすごく表情がある。色や雲や風など、ヤマトでは見たことのないドラマチックな変化を目の当たりにすることができるので、見ててまったく飽きることがない。一番の見方は、畳の部屋に寝転がり仰向けになったまま、空を眺める体勢が好きだ。
 そして、もう1つの理由は、飛行機がよく飛ぶ、それも低空で…。爆音がする度に空を見上げると、どう見ても旅客機や報道などのタイプとは違った飛行機類が飛びかっている。当然のように、その種類の大部分が土地柄、軍用機それも米軍機であることは想像がついた。好奇心から、そんな飛行機やヘリコプターを見る機会がある度にどんな機種なのかとなんとはなしに調べ確認するようになった。すると、いろいろなこと分かってきた。短距離しか飛べないヘリコプターなどの場合は、それが訓練で、どんなことを目的としているのか、そのヘリコプターの機種が分かると想像がつく。一方で、長距離を飛べる中型以上のジェット機系が飛び交うようになると、日本の周辺をはじめとする外国で何かが起きていることが推察された。限定というか特定できるものもある。例えば、嘉手納基地に所属している情報収集系、それも大気中の放射線物質を調査する器材を搭載している機体が飛んでいるときは、近隣の国で核実験が行われたのではないかと予想がつくのである。そんな経験から、沖縄の空は美しく神々しい世界そのものなのに、その世界の足下は沖縄の空ではなく、何か薄い膜が張られているような寂しさを感じる。

 さて、そんな経験をしつつ、神奈川に帰る。沖縄で空を眺める習慣のついた僕は、神奈川に戻ってからも空を眺めるようになった。それまでは、神奈川の空はずーっと遠くにあって、雲も色も遠くかすれているように僕の目には映っていたし、空を飛ぶ飛行機などは、空と地上の境を飛ぶジェットストリームの世界で、飛行機雲は見えても何の機種だかは検討もつかない存在だった。そして、ヘリコプターの場合は、住んでいる場所が海岸に近い関係で、海難救助に向かう海上保安庁のものばかりに違いないと思い込んでいた。でも、爆音がすると空を眺める癖のついた僕は、神奈川でもその度に空を見る。すると、想像以上に頻繁に、それも低空で飛行機やヘリコプターが飛んでいることに気づくようになる。そして、その多くが、沖縄の空で見たものと同様のものであった…、知らなかったし気づかなかった。遅らばせながら、ちょっと調べた。神奈川の空は、日本の空ではなかった。その空は、その大部分が米軍の空だったのだ(横田ラプコン)。うかつにもほどがある。沖縄にある問題は、神奈川の問題でもあったのだ。さらに言えば、日本全体の問題だったのだ。神奈川の空を見ていても、そこを飛び交う米軍の飛行機やヘリコプターから、世界の情勢をはじめいろいろなことが分かる。

 そんな話をすると、若い人たちから、それの何が問題なんですかと突っ込まれる。既に多くの人が、見えない占領状態を国の安全保障におけるギブアンドテークの関係から自明なものだと思い込まされている。不平等であることが気にならなくさせられている。問題、問題の本質は…。確かに、軍用機による事故の発生、これらも当然大きい。沖縄でも神奈川でも起きている。すると、飛行機の事故は、軍用機でなくても起きると反論がある。この問題に関してだけ具体的に問題を指摘すれば、1つとして軍用機の事故はその原因等を含め、情報は軍の機密により全てが公開されるわけではない。それが、兵器の弱点とかであれば当然のことだ。そして、特に在日米軍に限って言えば、日本の空のルール、例えば航空法に従う必要はないということだ。そのことの1例としては、沖縄でも神奈川でも、米軍の航空機・ヘリコプター等が市街地であっても、思った以上に低い高度を飛んでいる。
 そんな見える問題もさることながら、忘れてはいけない大きな問題は、僕たちの主権が侵害されていることだと思う。「主権の侵害!? それがどうした、今だって俺たちは、不自由なくふつうに暮らしているぜ、主権が侵害されていようがいまいが俺たちには関係ない…。」。それで、本当にいいんだろうか…。僕たちの自由や基本的人権や社会権などがないがしろにされている。残念ながら、こうした意識的傾向は、在日米軍の在り様にも無関心であるのと同様に、日本の様々な問題に波及している。「独立と自由ほど尊いものはない。」と言って、ベトナムのホーチミンたちはアメリカと戦った。そのアメリカだって、独立と自由をかけて戦った経験を持つ。独立と自由によって、その国の国民の主権は守られる。つまり自律的で自由な存在としての人となることができるわけである。自律的で自由な存在とは、生命(イノチ)一般の担い手として承認されるということだ。大げさな言い方かもしれないが、生きることの意味がそこにある。

 だとすれば、今の日本には、そういう意味の独立も自由もない。つまり、人が人として存在するための意識というか精神を欠いたまま、ただなんとなく存在している人々の群れがあるだけの状態のように見える。自分のことは自分で決める。要はとてもシンプルな意識だと思う。今の日本は、自分のことを自分では決められない(決められないようにされている。)人々の集団となってしまっている。独立と自由を取り戻そう。言い方を換えれば、「自己決定権」を取り戻そうということだ。その点に関して言えば、沖縄の人々は、そのことにとうの昔に気づいている。空を眺めることは、独立と自由への道に繋がっているのかもしれない。

 どうにも生き辛くなったときは、深呼吸をしながら、空を眺めよう。
 希望に繋がる見えない道が観えるかもしれない…。

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