SSブログ

那覇トークイベント2014-2

シュワブゲート.jpg

 後半は、まずは、本日伝え考えたいことの中心であった、沖縄から考える「学び」と「平和」への流れを作るべく、僕が、今、感じている沖縄から考える「学び」と「平和」の関係について、少し話しをしました。内容は、以前、このブログでも書いてように…。

 日本復帰前の沖縄の平和運動、復帰後の平和運動、そして本土における戦後の平和運動などを比べたとき、例えば、復帰前の平和運動であった阿波根さんたちの運動は、国家に属していなかったがゆえに、最終的な運動の目的・原動力は、「生命を守る」ことだと主張するようになった。戦後の本土での平和運動の多くの目的・原動力は、「憲法、特に、9条」を守ることにあると主張した。特に、戦後の日本においては、国家のあり様を規定している憲法において、平和であることを9条などが保障しているのだから、平和運動などの主張は、憲法を守れとなるのは当然の帰結であるように思われた。では、復帰後の沖縄の平和運動、例えば、辺野古での運動などではどうなのであろうか…。昨年、僕たちが行ったフィールドワークにおいて、運動の目的・原動力を尋ねた私たちに対して、辺野古の人々は、憲法を守ると言った上で、やはり、生命を守ることと主張を重ねた(ここでいう守る生命とは、単体の不連続の生命ではなく、地球上で綿々と受け継げられてきた生命一般の根拠をいう)。

 ここで僕が投げかけた問いは、沖縄で平和運動をすると、運動に参加をしている人々が、どうして、その運動の目的・原動力が生命を守ることにあると、気づくようになるのかということでした。こうした僕の問いに対して、田仲さんは、最近になって言われるようになった「ヌチドゥータカラ」などという言葉が広まる前から、そういった沖縄の事例は多くの所にあり、例えば、金武湾を守る運動などもそうだったと指摘され、彼らの運動の中心にも、水俣で運動をしている人々たちとの交流・連帯という学びの場があったことを紹介していただきました。

 そして、さらに僕が自身の活動の経験から、生命(いのち)の大事さに気づくには、他者と共に生きる(アクチュアル)という体験が必要なのではないかということ。さらに、そうした場では、ディアローグとしての対話が生起するのではないかと指摘させてもらい、こうした環境というか、暮らしが、自ずとあるのが沖縄という場所の特徴なのではないのかと話しを続けました。そんな僕の話に、田仲さんが、確かに、昔はユイマールと言ったような、そうした共生環境があったが、今では沖縄も都市化が進み、そうした環境も崩れてしまっているはず…。だが、東京の学生と沖縄の学生との共同プログラムの経験から、田仲さん自身は、学生に変わりはないでしょと思っていたが、沖縄の大学で教えているW先生からは、何かボタンを押されると出てくる沖縄の学生ならではの身体化された特性があるはずだと指摘された。一方では、やはり、現代沖縄においては、学問の場や世代間等における真の対話はなかなか成立せず、平和というスローガンすらも簡単に違う言葉へと上書きされていく…。

 私たちの話しに続き、会場に来てもらった若者たちを中心にして、沖縄を巡る意見を交換しました。まさに、今日のこの場が、学びの場としての平和運動のただ中となっていったのでした。

 はじめに、今回、初めて沖縄に来た若者たちに、今回の旅の印象や感想を聞くことにしました。「沖縄のことについて、来る前からいろいろと学んでいたつもりだったが、現場で実際のヘリの音などを聞くと驚く」「軽自動車の多さなどを見たとき、経済的な格差が潜んでいるのではないかと感じた」「フクシマでの原発の事故など、その実態は、普天間・辺野古と繋がっている気がした」などの意見、そして、質問として、「分かることと知ることの違いを意識したが、分かること(考えること)をするためには、どうしていったらいいのか?」
 この質問に対して、田仲さんの方からは、アメリカでの研究を終え帰沖した当時の自分の意識を例にしながら、これまでの日常と目の前にある実際とを比較をすることで、今まであたり前だと思っていたことが、そうじゃなかったと気づくことが必要だと助言をしてもらいました。

 次に、沖縄出身で本土の大学へと進学した若者たちの声。本土では、「戦闘機の音が聞こえない」「空がせまい」「海が見えない」「あるのが当たり前と思っていた自然がない」「私たちが思っているいじょうに沖縄のことを知らない人が多い」などなど、その後は、沖縄に来て、また、沖縄から出て、触発された意識の変容について、様々な意見が交換されることになりました。

 ということで、今回の催しの簡単な報告とさせていただきますが、少しだけ感想というか、感じ考えたことを付け加えておきます。結論じみたことを先回りして言うと、やはり、こうした時間・空間を創ることがとても大事だということです。今回は、出版記念という形でしたが、平和について考える対話の場を創るということは、そこに学びの場が出現することでもあり、平和の問題を考えるときに陥りやすい、安易な相対主義化であるとか、本質主義化的なものへの回避としてたいへん重要な行為であるということを実感しました。ましてや、今回の対話の中で、終始意識された言葉の1つが、「いのち(生きること)」であったのは、今回の本の主旨や、日々、僕が考えているような学ぶことの意味の方向性が、そうは間違ってはいないことの証明ともなり、まさに、僕のこころは、安心し平和なこころ持ちでこの日を終えることができたのでした。

 誠に実りある対話の時間となりました。ご参加していただいた方々、こころからお礼申し上げます。

nice!(0)  コメント(0) 

那覇トークイベント2014-1

2014那覇トークイベントチラシブログ.jpg
           design by ばたこん

 去る2014年8月15日、那覇Bar土さんで行われた『沖縄平和学習論-教えることを手がかりにして-』の出版記念トークイベントの報告をさせてもらいます。報告と言っても、約2時間にわたり行われたイベント、内容はなかなか濃密で、それを全て細かく報告することは無理なので、ポイントというか話の中心をかいつまんで書かせてもらうことにします。

 どういった人々がどのくらい集まっていただけるのか、皆目見当がつかないままに当日へと突入しました。4月に出した本の出版記念としただけに、やはり、「平和」というタイトルが前に出ざるを得ません。あちらこちらで目や耳にすることができる「平和」という言葉だけに、今回、僕たちが対話をしようとしている「平和」とは、どんな特徴を持つ「平和」なのか、あちらこちらにある「平和」と僕たちが考える「平和」とを比較検討するための対話の場がつくることができたらいいな~、という想いを込めて、イベントタイトルは、「平和について語るときの私たちの流儀」としました。

 会場は、那覇の路地裏に第4次空間的なたたずまいで存在するBar土さん。南国の太陽も傾く、午後6時30分、僕の心配をよそに続々と人々が集まってきてくれました。なかでも、若い世代の人たちが多く来てくれるといいなとの想いが通じたのか、地元の大学生をはじめ、ちょうどフィールドワークで沖縄に来ていた大学生など、全国の若者が多く集まってくれました。僕たちを入れて30名近い人々が集まり、8月の熱い夜が始まったのでした。

 土の2階は、隠れ家中の隠れ家のごとく、30名ほどの人が入れる小ホールになっています。そんな居心地のよい空間にて、対話が始まりました。まず、初めは、僕と田仲さんの簡単な挨拶から…。あーぁ、田仲さんとの出会いから、もう10年以上経つのか…。人の出会いというのは、不思議なもので、縁があるというか、相性がよかったというのか、続く人とは、その交流が長く続くな~、と出会いの頃のことをつらつらと思い出していました。

 挨拶の後は、せっかくの機会なので、僕の方から、この本のキーワードについて説明をしました。詳しく知りたい方は、本を読んでいただくとして、そもそも、この本というか、この本の下敷きとなっている授業は、平和をテーマとした総合学習の授業をどう創るかが目的であり、その外観としては、科学的な手法を使った平和の相対化までだったはずでした。ところが、授業を進めていくにつれ、その場が、まさに平和運動のただ中となり、対話の場となり、私たちにとっての真の平和とは何かということまでも展望するような場となったのです。ということで、そんな変化の様子を書き表したものなんですが、そうした思考というか思索というか、授業を創るときの準備の契機として僕が用意したものは、4つの言葉でした。「2つの対話」「2つの平和」「2つの暴力」「2つの他者」。

 一見すると二項対立的な世界へと引きずり込まんとするこうした切り口は、結論への展開と対比するための糸口でしかないのですが…、田仲さんには見抜かれましたけどね。ともかく、2つの世界観について簡単に説明をしました。「2つの対話」とは、「モノローグ」と「ディアローグ」、「2つの平和」とは、「カント的平和」と「ヘーゲル的平和」、「2つの暴力」とは、「神話的暴力」と「神的暴力」、「2つの他者」とは、「絶対的他者」と「真の他者」、こうした言葉周辺の詳しい考察については、是非、本をお読みください。

 僕からのキーワード解説の後は、田仲さんからのこの本についての解説ならびに感想・印象などについて話してもらいました。たぶん、この後、田仲さんが話してくれたことは、近いうちに、どこかの書評に出ると思いますので、詳しくはそちらを読んでいただくとして、ここでは、当日のお話で、印象に残ったことを中心に紹介しましょう。
 読んだ印象を直観(直感)的に語ろうと始められた田仲さんの話を、思い出すままに簡単に紹介しますと、まずは、ともかく、この本が沖縄平和教育論ではなく、沖縄平和学習論だったがゆえに、手に取り読もうという気にさせたということ。平和学習の場における〈教える-学ぶ〉ことの重要さ。特に、学ぶという行為が持つ、「対話(ディアローグ)」な環境の生起。そして、運動を通じ変化をしてきた沖縄における平和観。9条厳守中心主義的なものから生存権・社会権の確保が中心の運動へ。3.11以降の世界において、「生きること」の大事さの再認識。ゆえに、沖縄でも二項対立的なものから、真の他者の存在への気づきへの意識の変化などというお話でした。

 この後は、会場に来ていただいた方々も交えた「対話」の時間へと広がっていったので(沖縄から考える「学び」と「平和)、そこらへんの様子についての報告は、次回させていただくとして、当日、この後に上述した田仲さんの話に応答した部分について、少し付け加えておこうと思います。

 田仲さんも指摘をしているように、特に、3.11以降の日本では、生きることや、いのちの大事さについて再認識をするという意識が高まっています。そうした流れにあって、沖縄の場合は、確かに、3.11以降においてもそうした意識の高まりは当然あるのですが、僕の感覚からすれば、この本の中でも書いたのですが、戦後沖縄における平和運動などの経験からも分かるように、真の他者としての「生命(生きること)」の存在の気づきは、かなり一般的なことであるような気がしています。こうした状況は、僕の主張からすれば、そこに〈教える-学ぶ〉行為を媒介とした「対話」を中心とした暮らし(アクチュアル)が存在していることを裏付けています。

 「学ぶ」という行為も、同様に生きるためのもので、生きるため、生命を担保するために学ぶのだとすれば、こうした行為を支えている原動力は共通したもので在る可能性は高いわけです。つまり、存在の問題に行き着くことになるのです。ここらへんのことについて対話後、つらつらと考えているとき、琉球にある「すでる」という言葉を思い出しました。この「すでる」という言葉は、古代ギリシアにおける「ピュシス」に近いもののような気がしています。そうだとすれば、「すでる」という感覚が、ある意味で、琉球・沖縄のコモンセンスとして長くその社会の基底意識として残ったのはどうしてなのか、などという存在の問題と重なる課題も浮かび上がるのです。
 後半の「対話」についての報告は、次回にしましょう。

2014tuchi-1.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

「教育」と集団的自衛権

2014ajisai-1.jpg

ここ数年、僕は「オルタナティブ教育論」という、若者たちとの「対話」の時間を持っているんですが、今年ほど、国家教育であれ、オルタナティブ教育であれ、日本における教育のオルタナティブ性を考えざるを得なくなった年はありませんでした。

それは、集団的自衛権の行使との絡みでより鮮明にというか、明確になったからです。ただ、この話の前提として注意が必要なことは、とりあえずは、「教育」という範疇の話しだということです。

というのも、僕自身は、「学び論的転回」を経て、「教育のオルタナティブとしての学び」を眼差している関係上、オルタナティブ教育を「教育」の外に出るための重要なプロセスの1つだと考えているからです。そうした前提を明確にした上で、「教育」と集団的自衛権行使の関係において、考えたことを書いておきたいと思います。

特に、近現代における、「教育」というものを考えたとき、それは、国家、近代以降であれば国民国家において、その国家によって規定されたシステム(制度)の1つであることは明らかです。つまり、「教育」という制度は原則として、国家内において稼働している代表的なシステムの1つであると言えます。したがって、そうした1つの国家内において稼働している教育という言葉がつく○○教育と呼ばれるものは、その存在の拠り所となるであろう国家のあり様が、たいへん重要な要素となってくるわけです。ある意味で、当たり前の話ではありますが…。となると、これまた当然の話ですが、そうした国家のあり様を規定しているものが憲法となるわけですから、憲法とその国家内で実施されている「教育」と呼ばれているものとの関係は非常に緊密なものとなります。

こうした視点で考えたとき、その国家のあり様を規定している憲法において、その決定的なというか大きな違いとして上げなくてならないのが、戦争の放棄や交戦権の破棄などが明記されているか否かという点は無視することはできません。で、現状について言えば、こうした条項を日本国憲法では、その第9条として明記しています。一方で、欧米諸国では、こうした9条のような条項を持つ憲法を維持している国家は見ることができません。このような、国家のあり様を規定している憲法が持つ性格の違いは、その憲法によって規定されているその国家内において実施されている「教育」に対して、大きな影響を及ぼしていることは言うまでもありません。

つまり、欧米の場合、国家教育であれ、オルタナティブ教育であれ、国家に属して教育的営みを行っている以上は、そうした場で教育的に保証されていると思われる、例えば、「自由」だとか、「自律」だとか「平和」というものは、いざというときには、憲法などによって許されている軍事力の行使などで、その存在を担保されいる国家の持つ意味内に留まることになるのです。そのことは、米国などの例を見ると分かりやすいと思います。教育の現場で主張される「自由」とか、「平和」は、その国の、米国であれば米国にとっての自由とか、平和という意味になります。まぁ、当たり前と言えば、当たり前の話です。

この視点から考えた場合、日本の「教育」は、国家教育であれ、オルタナティブ教育であれ、欧米諸国とは、基本的に違う規定(憲法)からなる国家であると言え、そうした国家規定に沿う形で、「教育」という行為が実施されているわけです。したがって、上述したように、日本の「教育」の現場で主張される「自由」とか、「平和」という言葉の意味は、確かに、日本の自由や平和ではあるかもしれませんが、欧米諸国のように、軍事力によって担保された自由や平和ではありません。つまり、同じ「教育」という現場で、同じように「自由」とか「平和」とかという言葉を使ったとしても、その意味は、厳密に言えば、軍事によって担保されたそれらであるか、非軍事によって担保されたそれらであるかという大きな違いがそこにはあるわけです。こうした違いを踏まえた上で、欧米諸国と日本の「教育」のあり様を比較した場合、明らかに違う教育観(価値観)を拠り所として実施されている行為であると言えます。

こと「教育」という範疇から見れば、欧米の価値観(国家観)から見たら、まったく違った価値観をもとにして行われている日本の「教育」は、価値観の違うものというオルタナティブ本来の意味をも含めた、オルタナティブな教育ということで、本当の意味のオルタナティブ教育を指すものなのかもしれません。

若者たちとの対話の時間では、こんな前提を確認しつつ、では、欧米における国家教育とオルタナティブ教育の比較、日本における国家教育とオルタナティブ教育の比較などというように、より深い議論検討へと入っていくのですが、欧米の「教育」に対するオルタナティブとしての日本の「教育」という視点である今回の話に焦点を絞れば、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使という話は、まさに、日本の「教育」の根幹を揺るがす話なのです。日本の「教育」のあり様の前提が、覆る話なわけです。この重大事に、教育のいわゆる現場からは、あまり声が聞こえてきません。自分たちが現場において使ってきた、子どもたちに伝えなくてはいけない言葉として大事にしてきたものの意味が、180度違う意味になってしまうことに対する不安や恐れはないのでしょうか…。状況変化・状況認識に対する反応の鈍さが、少々気になっている今日この頃です。
nice!(0)  コメント(0) 

『沖縄平和学習論-教えることを手がかりにして-』

okinawaheiwa.jpg

 少々、遅くなりましたが、以前から予告していました新しい本が発刊されました。今回の本は、一昨年まで大学の教職課程で実施をしていました講義の講義録をもとにして書き上げたものです。沖縄を学習リソースとして、「平和」について教えることを通じ、「平和」のことを学ぶ実践的学習書です。
 文章の量もあまり多くなく、活字も見やすいサイズで、レイアウトもわかりやすく、半期分の講義を受けるような感覚で、対話形式で「平和」について学ぶことができる平和学習の入門書になっています。

 そして、この本のキーポイントは、やはり沖縄の平和に関する事象をテーマとして、平和の意味や、平和を学ぶことの意味を考える機会となっている点です。さらに、そうした沖縄をテーマとした学習理論書を沖縄にある出版社から出せたこと、そして、この本が少しでも日本の様々な所に広がってくれるとしたら、長きにわたり、沖縄から多くの宝物をいただいてきた僕にとって、やっとささやかではありますが、恩返しができたのではないかと感慨もひとしおです。

 皆さんに購入、または、街や大学の図書館などでリクエストなどしていただけたなら、僕たちの学びを通じた平和運動をはじめとし、沖縄における平和運動などに対する、大きな励ましならびに、運動の原動力となると思います。

 こちら勝手なお願いで誠に恐縮ですが、最新刊『沖縄平和学習論』を、どうぞよろしくお願いいたします。


『沖縄平和学習論―教えることを手がかりにして―』
柳下 換 著
榕樹書林、2014年4月18日

 戦後も70年にあと1年、沖縄の教育現場での平和教育の行き詰まりが指摘されるようになったのはいつ頃からであったろうか。時代は閉塞感にあふれ、戦争の賛美や軍備強化論が幅をきかす様になり、平和とは何かが強く問われる状況である。
 本書は今日の沖縄をつくり出した根源である薩摩による琉球支配の実像を解き明かそうとする著者と、市民との共同作業を通して平和とは何かを追求し、「学ぶ」ことの意味を、国家や公権力から自立した活動のなかから追い求めた新しい提案の書である。

【目次】

序章
第1章 自己紹介
第2章 教えることとは、どういった意味なのか
第3章 「教える」「学ぶ」の関係性について
第4章 「何を教えるのか?」、「なぜ、『平和』を教えるのか?」
第5章 科学的な思考
第6章 授業書『薩摩侵入後(近世琉球)の琉球において石高制は機能したのか』
第7章 「平和」について学ぶために、「沖縄」を学習リソースとした意味は?
第8章 沖縄に関する気になることは?
第9章 「暴力」とは何か?
第10章 授業書案の検討
第11章 模擬授業 まとめ

まとめにかえて
沖縄をリソースとした平和学習をつくり、授業を行うことの意味

■A5、232頁
■定価(本体2,800円+税)
■ISBN 978-4-89805-173-3 C0037
http://bookjungle.ti-da.net/e6115399.html


nice!(0)  コメント(0) 

さぁ、新学期

2014sakurafubuki-α.jpg

新学期が始まりました。
本年度も、また、多くの若者たちと出会わせていただいております。
こうした機会が、毎年毎年、与えられることをこころから感謝しています。
僕にとっては、まさに生きる原動力をもらっているたいへん大事な時空間です。
そんな大事な機会なのにもかかわらず、直ぐに肝心なことを忘れてしまう自分がいます。
こうした健忘症はどうにかならないものでしょうか…。

先日あった初回の1つの授業でも、いつも授業に臨むにあたり、
僕の考え方のグランドセオリーとなるものを、少し解説するようにしているのですが…。
僕の中では、当たり前となっている思索の契機となった哲学者や思想家たち、
彼らのことを、多くの若者たちが知らなかったりすると、
思わず、大学生になったいじょうはせめて、これらの人の著作を、
一度は読まなくちゃダメですよ、なんて口走ったりしてしまいました。

僕が、20歳前後の頃は、こうした人たちの著作をまじめに読んだためしがなかったのに…。
そんなことを棚に上げ、さも当然なごとく説教をしてしまう。
情けない大人になったものです。
まず、はっきりしていることは、そんな哲学者たちが問題としたようなこと、
若者たちの多くは、自分の問題として悩み考えているのが実際であるということ。
そして、むしろ問題なのは、教える方の側が、そんな若者たちときちんと、
対話をしてきてないことなのに…。
ゆえに、同じような悩みや問題をテーマとして思惟重ねてきた、
先人たちの存在に興味を持つ機会がなかっただけなのです。

何のために僕がいるのか、道先案内人として、そんな若者たちと、
対話を繰り返すなか、先人たちの考えや実践に興味を持ってもらい、
世界、いや宇宙に在る大事なものの存在を共に気づくことの楽しさを知ってもらう、
にもかかわらず、僕に与えられた大事なミッションを直ぐに忘れ、
大学生なんだから当たり前だろ的な、上から目線の物言い、
まったくもって、いつまで経っても覚りを開いた者になるにはほど遠いのです。
まさに、初心忘るべからずで、僕とて一学習者であり、対話を通じ、
若者たちと共に、〈教える-学ぶ〉という実践を積み重ねていかなければならない、
存在であることを肝に銘ずる新年度初頭です。

健忘症と言えば、最近、特に気になっていることの1つが、集団的自衛権の話です。
長くなってしまうので、いわゆる推進派の人たちの主張で気になる点を、
2つだけを指摘をさせてもらいます。

1つは、彼らの多くが、集団的自衛権を必要とする理由として、
東アジア地域の環境の変化によって、言うことを聞かない国がある以上、
より一層強力にした軍事的な力(同盟国などとの協力関係強化等)で、
仮想敵国の暴走を抑止していかなくてはならないというものです。
この考え方には、相当な疑問を持たらざるをえません。
というのは、結局、仮想敵と相応、もしくはそれ以上の力を誇示することで、
相手の闘う意志を挫こうとするものであるいじょう、最終目標は、
国家の重武装化、すなわち核武装につながることが容易に想像できるからです。
おそらく、原発の再稼働・維持もここらへんと関係があるのかもしれません。

そして、もう1つは、制限つきで行使をするという主張です。
確かに、先日指摘をしたように、同盟規定となる安保条約においては、
自動的に同盟国に手を貸すとは書いてはおらず、お互いの国の法律に則り、
加勢を決めるとなっているわけですから、日本の場合は、憲法がある限りは、
そうは簡単には集団的自衛権は行使できないことを、米国だってよく知っているはずです。
逆に言えば、制限つきであろうが、無かろうが、行使をしたら歯止めがきかない、
ということを、同盟国である米国もよく理解しているがゆえに、
安保条約できちんと縛りをかけているわけです。

で、そもそも、この2つの懸念、というか、こうした判断の結末が、
最悪なケースを導くということを、日本は既に経験しているはずです。
歯止めなき、軍事力強化、拡大侵攻を引き起こし、結果の破滅…。
原発再稼働による安全神話の復活もそうですが、日本の統治権力側にいる方々、
お願いですから、過去の失敗に学ぶというか、思い出していただきたいものです。

nice!(0)  コメント(0) 

市民ゼミナール2014-下

ks2014-tex.jpg

【第3回】「イジメを考える-Ⅱ」-暴力解体手法-
まずは、暴力とは何かということで、その概念の出自元である欧米にある定義を再確認しました。ただ、暴力という概念が注目を浴びるようになったのは、近現代以降で、特に、2回の世界大戦以降、人類にとっての重要なキイワードとして浮上してきたのです。そうした流れの中、暴力という言葉の定義を戦後、再定義した人がいます。それが、ユダヤ系ドイツ人の哲学者であるハンナ・アレントです。日本語に訳してしまうと暴力という言葉に相当してしまうものは、例えば、ドイツ語においてはいくつかあって、そうした言葉を1つ1つ丁寧にアレントは確認しました。今回のゼミで注目をしたそんなドイツ語は、KraftとMachtとGewaltでした。中でも、今回のテーマと密接な関係にあると思われたのは、MachtとGewaltです。彼女の定義によれば、Machtは集団に属す力で、別の言い方をすれば、「権力」という言い方になり、Gewaltは、道具と共に行使される力で、簡単な言い方をすれば、そうした道具を使おうとする意思の源としての「原動力」ということになります。

このような欧米形而上学出自の概念である暴力というものを抑止したり、解体する方法を思索した人の一人に、2つの世界大戦の頃を生きた、やはりユダヤ系のドイツ人哲学者にヴァルター・ベンヤミンという人がいます。彼はドイツ革命直後のドイツを背景として、1921年に「暴力批判論」という論考を発表します。政治の季節であったドイツにおいて、暴力に関して検討したこの論考は、ドイツ語題では、「Zur Kritik der Gewalt」となっており、その思索の対象はMachtではなく、Gewaltが中心となっています。ただ、この論考の成り立ち等から考え、検討の範囲が最初からGewaltであったのか、それとも思索の結果、Gewaltになったのかは定かではありません。ともかく、この論考の中でベンヤミンは、暴力を神話的暴力と神的暴力という2つの暴力に分けています。特に、当論での検討の中心は、神話的暴力を言い換えた法的暴力で、当面の私たちの目標は、国民国家内における法的暴力の廃絶であると主張します。そして、その方法は、体制側が行使してくる法的暴力に対して、市民が権利として持つ法的暴力の行使により、対抗的な抑止力で暴力を無力化することだとします。しかしながら、ベンヤミンはそうした神話的暴力に対して、その存在を根拠づけているもう1つの対抗的な暴力の存在に気づきます。それが、その性格から、純粋な暴力とも言われる神的暴力です。言い換えると本性の暴力ともいえるこの暴力をどう扱うか、また、この暴力自体が、現前の形而上学上のものであることから、その解体方法については、形而上学的概念である暴力の中に存在する不確実性を暗示したところまでで、思索を開いたまま当論を終えています。こうした論考に対して、鋭く応答したのがデリダというフランスの哲学者なのですが、今回はこの後の暴力解体手法の中で、彼が提案した脱構築という手法について簡単に説明しました。

ベンヤミンの主張を援用すれば、日本の学校社会における対処法は明確です。1つは、市民の側が持つ法的暴力権を行使するということです。つまり、法的な対処を実行するということで、警察に訴えたり裁判権を行使したりすることです。そしてもう1つは、国民として当然、持っている生存権・社会権を行使し生命が脅かされる場所には近づかない。ようは避難するということです。そのために、侵害されるであろうその他の権利は、違う形で保証されるのは当たり前です。

しかしながら、こうした暴力の無力化は、暴力に対する暴力の抑止による暴力の無力化でしかなく、例えば、イジメを起こす原動力としての暴力そのものを解体しているわけではないのです。その対策の視点というか、ヒントとしてベンヤミンは、いくつかの言葉を残しています。1つは、「神的暴力は、あらゆる生に対する、生ある者のための、純粋な暴力である。」と言い、もう1つは、「神的暴力は、摂理の暴力と呼べるかもしれない。」などです。この2つの言葉は、神的暴力が持つであろう性格を的確に表現しています。つまり、本来、暴力という概念は、人間が作り出してしまったものであるから、その対処法は、同一言語ゲーム内のコードに則って行うしかないのですが、そもそもの本性的暴力なるものが、その言語ゲームの外に在るのだとしたら、暴力そのものの概念というか意味を読み替えることが可能なのではないのかという指摘なわけです。つまり、人間が作り出した暴力概念には、暴力という力が含む概念化不可能な力が含まれているということなのです。この指摘は、後に、デリダをたいへん刺激するわけです。デリダ的な立場から言うと、暴力は脱構築可能であるということになるのです。

脱構築とは、ある概念の中に含まれているその概念の不確定性(不確実性)を曝き、自明であったはずの階層秩序を転倒する行為です。暴力に関して言えば、暴力という観念を破壊する行為として見るのではなく、生み出すもの、つまり、生命一般を創造する力と読み替え続けることを言うわけです。この可能性と不可能性の間にある差異をずらし続けることをデリダは差異の差延と言い、ずらし続ける実践のことを代補の運動と言います。ただ、この方法で知っておかなくてはいけないことは、これも原則として形而上学上の行為であり、1つの言語ゲーム内における行為であるということです。ただ、こうした試みは、結果として、生活世界の外にあり、例えば、宇宙全体として共通して存在しているであろう真の他者に気づくことに繋がる可能性を秘めています。このことは、人類のみならず、宇宙に在る生命体において、最優先すべき一番大事なものは何であるのかということの気づきであり、それを人類などが共通了解したとき、まさに破壊としての暴力の存在が解体されるわけです。

そこで、仮に脱構築的な手法を暴力の解体に応用したとします。より具体的に考えるために、彼が言うところの脱構築の実際の試みである代補の運動を、例えば平和運動に重ねてみましょう。平和運動は何かという検討も必要にはなりますが、ここではとりあえず、暴力解体を目指す代補的な運動の1つであるとします。そうやって、考えてみると、現代社会はなかなか興味深いです。運動としての段階というか、状況状況による平和運動の目的がはっきりします。
ヨーロッパの場合は、その目的は、体制側が行使してくる法的暴力に対抗しうる絶対的な法を制定することが目標となります。多分にカント的な目標となるわけですが、カントの構想が未だ実現していないところをみると、この闘いはまだまだ続きそうです。そんな欧米に対して、日本の場合は、国家としては欧米諸国が運動の目標とするであろう絶対的な法は既に憲法第9条をとして実現しています。このことによって、運動の目標は、その法の遵守ならびに保障ということになります。したがって、日本国内における平和運動が、「憲法をちゃんと守れ!」と主張することは運動として正統的なことです。ただし、ここで気づいておかなくてはいけないことは、欧米の平和運動の目標であれ、日本の平和運動の目標であれ、それらが法的暴力内における暴力の無力化であるかぎりは、暴力そのものの解体ではないということです。その先まで行くにはどうしたらよいのか…。

そのヒントが沖縄にありました。今回のゼミでも、時間がなくなりその詳しい理由・説明をするところまでは至りませんでしたが、先回りして概要だけを簡単に言うと、国家に属していなかった復帰前の沖縄における平和運動の1つである伊江島の阿波根昌鴻さんたちの運動であれ、復帰後の平和運動の1つであり、それも最近の平和運動である辺野古の運動であれ(今回のフィールドワークで明らかになったが)、彼らが運動の最終目的を「いのち(生命)を守る」としている点です。国家に属していなかった当時の沖縄の農民たちが、結果として自分たちの闘いの目的が、いのちを守ることにあると気づき、同様に、辺野古で闘っている人たちが、憲法遵守や環境保全等の目的を経て、やはり、いのちを守ることが目的であるとした点。こうした点が、僕としてはとても重要だと思っているのです。彼らは、なぜ、結果として、生活世界の外に在る真の他者の存在に気づくことになったのか?彼らの運動に共通して言えることの1つは、〈教える-学ぶ〉としての「対話」がその運動(実践)の中心にあったということです。それらの実際から、「彼らは運動手法の1つとして、なぜ、他者との対話を自然に取り込んでいるのか?」、「そうした身体性こそ、沖縄の基層文化など(祭祀儀礼の時の神歌・歌謡など)によって培われた精神性なのではないのか?」などという新たな検討点が広がることを指摘しつつ、今回のゼミを閉じました。

今回のゼミ全体として、「おもしろかった」、「興味あります」というお声をたくさんいただきました。たいへん、ありがたいことです。同時に、ゼミを開催し大事だったことは、こうしたテーマで皆さんと対話をしたということです。それも連続で、つまり、こうした実践そのものが、運動であり、そのただ中であるということです。そして、これはまた、僕たちなりの平和運動でもあるということです。おそらく、今年の後半も様々な形でゼミをやると思います。ぜひ、皆さん、お気軽にご参加ください。特に、今回の鎌倉・那覇でのゼミナール、沖縄でのフィールドワーク、多くの方々のご協力、ご支援により実現することができました。この場を借り、こころからお礼申し上げます。どうもありがとうございました。

(photo by ばたこん)
nice!(0)  コメント(0) 

市民ゼミナール2014-上

ks2014-win.jpg今年の風ゼミは、昨年同様イジメをテーマにして話をしました。昨年の試みと違ったところは、まず、回数を2回から3回にしました。そして、会場を鎌倉・長谷のカレー屋さんwoof curryと沖縄・那覇のラーメンとカレーの店である三角点さんという2つの場所で開催しました。講座が3回に渡りましたので、タイミングよくというか、講座と立体的な関係になるような形で、フィールドワーク沖縄も実施することができ、鎌倉・那覇での風ゼミ、そして、沖縄でのフィールドワークというように、新しい形の学びの空間を創ることとなりました。これに合わせ、実は、大学主催の横浜での市民講座も絡めようと思っていたのですが、そちらの方は休止となってしまったので、少し広がりを欠くことになりましたが、新年度に向けて、地域に軸足を置いた市民参加の新しい学びの場の構築に夢が広がります。当然、こうした試み(実践)が、地域共同体における自己決定権(自治権再獲得)回復の運動(代補)に繋がっていることは言うまでもありません。

そこで、今年の風ゼミの内容やら、感想やらを簡単にではありますが、報告しておこうと思います。

【第1回】「『対話』とは何か?」-ナショナリズムとグローバル化-
イジメについて、考えるにあたり、その現象や発生のメカニズムを検討するところまででは、不十分だと僕は考えていて、その具体的な解決方法としては、どういった方法があるのかまで検討しようとし、その1つのとっかかりとして、「対話」という方法を重要視しているわけなのです。ただ、ここでイジメの解決と言った場合、特に、その暴力論的な視座でイジメを考える場合は、日本という国の社会内での対処法とイジメという行為を規定しているであろう暴力という概念の解体法という2つの眼差しから検討する必要があるということを理解しておく必要があります。なので、今回の講座の構想としては、第一に、暴力解体の手法として有効だと思われる「対話」についての検討。第二にイジメ(抑圧)という現象が発生する社会構造についての検討。そして第三として、イジメの原動力であろう暴力の正体ならびに、その暴力の解体手法についての検討。こんな流れをイメージしました。その第1回としては、暴力の解体手法へと繋がるであろう「対話」という手法について、「ナショナリズムとグローバル化」というテーマを材料にして解説をしました。

特に、対話とは何かという点について、いわゆる「対話」と呼ばれてものの多くは、モノローグでしかなく、真の「対話」とは、ディアローグであること。ディアローグである「対話」が成立するところでは、自ずから〈教える-学ぶ〉の関係が発生して、そうした実践の継続は真の他者の存在を気づかせることに繋がるだろうということなどを解説しました。こうした、僕が想定している「対話」の実際は、たとえば第3回に話すことになる沖縄・伊江島における阿波根昌鴻さんたちの運動と重なるのです。

ディアローグである「対話」とは、異なる言語ゲームに属する者がコミュニケーションをする行為を指します。少し具体的に言うと、違う世界観や社会観を持つ者が、自分の世界を説明するために会話をする場合であったり、違う言語を持つ者が、会話そのものを成立させるために単語の意味などを解説し合いながら交流するような姿を言います。そんな「対話」の実際を体験した参加者の皆さんは、いろいろな感想を寄せてくれましたが、鎌倉であれ、那覇であれ、共通していただいた言葉は「おもしろかった…」でした。これはとてもうれしい言葉で、真の他者の存在の気づきへの第一歩と言うべく、お互いの言語ゲームの外にあるというか、異なる言語ゲームを包み込んでいる共通感覚の共有ということで、「対話」が成立した1つの証でもあるわけです。

【第2回】「イジメを考える-Ⅰ」-暴力とは何か?-
近現代社会においてイジメの構造を考えるとき、欧米社会にある抑圧の構造について知らなくてはいけないと思います。特に、近代以降、例えば欧米社会にあった抑圧の構造は、やはり、社会の形而上学化であるとか、科学化であるとか、資本主義化という流れを無視することはできません。欧米社会における科学化、言い換えれば、発展、より具体的に言って資本主義的発展を支えてきた理念が欧米における哲学・思想でした。欧米における哲学の目的は、立派な人間になることで、立派な人間とは自律的な精神を獲得した人間になることなのですが、そのための方法が欧米的哲学手法であったわけです。その手法の中心となるのが内省でした。内省中心的な思索のみによって精神を獲得していった場合、最後には絶対的な他者を必要とするようになるのですが、自己の言語ゲーム内における絶対的な他者とは、あくまでも同一ゲーム内におけるコードによって作られた絶対的な他者であって、真の意味の他者ではありません。こうした社会において、集団の絶対的な指導者となるには、準神的な存在となるのが早道です。そのためには、自身が絶対的な存在であることを明確的なものとするための対象を必要とします。それが、敵であり友です。こうした構造が、欧米社会では、迫害・抑圧という形で何度か噴出しました。

一方で、欧米社会において、こうした科学的な考え方を広めるのに一役買ったのが、教養主義です。教養主義とは、人は、〈内省(第一疎外)→独我(第二疎外)→陶冶(止揚)〉という流れを促すことで精神を獲得した立派な人間になるというものでした。例えば、啓蒙を通じたこうした流れによる教育は、欧米社会における科学的/資本主義的な発展の下支えとなりました。しかし、一方でこのような発展は、国民の精神を分裂させ、国家を分解させるものともなりましたが、地域共同体や宗教が機能している時代は、これが持つ力によって国民・国家の精神の再統合がはかられました。

第二次世界大戦後の欧米社会では、より一層の資本主義的な発展が進みます。その結果出現したのが、消費文化社会でした。消費文化社会では個体化が進み、自由競争(自己責任)をすることでさらなる発展、特に経済的な発展を目指す社会でした。こうした社会では、国民の精神・国家意識の分裂を避けることができません。戦後の特にヨーロッパ社会では、分裂を抑制し、国民や国家の精神や意識を再統合を果たす意味で、政府主導型の福祉国家建設を目指すことになります。しかし、経済的な発展によって保証されていた福祉国家は、経済の破綻とともに頓挫をします。結果として国家の分裂やむなしと思われたヨーロッパ社会においては、地域共同体などが主導した自己決定権や自治権回復を目的とするオルタナティブな動き(運動)が、発展至上主義による人の精神や共同体の自治組織の分裂に歯止めをかけることになります。

こうした欧米の動きに対して、特に戦後の日本では、敗戦国となったにもかかわらず、特殊な環境によって、いち早くの経済復興ならびに高度経済発展を成し遂げます。戦後の欧米社会以上の消費文化社会化は、急激な個体化を引き起こし、様々な問題を発生させました。中でも、社会の個体化に伴う国民の精神や国家意識の分裂は、早急な再統合を必要としましたが、欧米社会でそうした機能を担ったような、地域共同体や宗教的コミュニティは日本にはなく、その役割を企業が担うことになったのです。そうした疑似共同体であった企業に対して、新しい人材を供給する装置の1つとして戦後の学校は機能していくようになるのです。

確かに、戦後まもなくの頃の学校は、国民が戦争に荷担をした原因の1つとして、教育における科学性の不足を反省し、科学性を重視するがゆえに教養主義的な教育を推進しました。その目標の1つが自律的な人間の育成を目指すはずだったのですが、高度成長下に入ると優秀な企業人材の輩出へと目的が変質していってしまいます。一方、そんな学校内では、内省主義を重視した結果、その成果の到達点を承認するための絶対的な他者が必要なりましたが、日本の、特に公教育においては、欧米のような地域自治的な絶対性や宗教による絶対性があるわけではなく、企業が持つ絶対的な評価基準である貨幣の持つ絶対性が、疑似企業社会となってしまった学校としての絶対的な価値評価基準として浸透していきます。つまり、学校内においては、様々な価値表現がありましたが、その全てが貨幣の獲得能力による評価へと結びついてしまうことになったのです。画一的な評価によってアイデンティティを喪失した若者たちは、貨幣の獲得能力による階層秩序に否応なしに参加させられるようになります。そうした階層の中で、自身の存在を少しでも有利にするためには、周辺集団において、対象化した者を作るのがてっとり早かったのです。つまり、敵/友を作ることです。イジメの場合は、自身が上位であることを際立たせるための敵となるわけです。

戦後日本における学校という装置を使った国民の再統合(主体化)は、社会の企業化であると同時に学校化であったと思います。戦後日本社会の特徴の1つは学校化社会であると同時に企業化社会であったわけです。学校化社会・企業化社会の推進と引き替えに、地域共同体は崩壊し、地域にあった自己決定権(自治権)は、中央政府へと委譲されていくことになるのです。こうした動きと調和的に、日本の学校という疑似社会におけるイジメという現象は増加していきます。

このように、日本の学校という場所で発生しているイジメという現象は、日本特有の現象である可能性が高いわけです。その構造的な原因として考えられる日本の学校と社会の仕組みは、相当に巧妙に作られていると言わざるを得ません。例えば、学校では、経済的な発展に貢献する人間を育成するために貨幣を絶対的な他者とした教養主義的な指導を強めます。すると、子どもたちの精神は疎外化し分裂していきます。分裂した精神を再統合するために、学校内における子どもたちの自治的活動に力を入れさせます。子どもたちの多くは、自分たちの自己決定権や自治権が指導者側から奪え返せると思い、一生懸命活動します。しかし、その指導者側によって計算された活動の多くは、強めた教養主義的な指導の成果に伴って発生した疎外化による精神の分裂を再統合するための仕組みとして回収されていくことになるわけです。

ks2014-lec.jpgこうしたイジメという現象を発生させている学校という場所において、そうした現象を起こさせている原理的な活動の体験談は参加者の間からもいろいろと出ることになりました。例えば、教師が怒るときに、自分の心によく聞いてみろと言ったり、部活などで、敵は相手じゃない己だと言ったり、文化祭や運動会で、クラスを一致団結させるために頑張ろうと言ったりと、思い起こせば分裂と再統合は、学校実践の両輪であったわけです。まぁ、学校のみならず、近現代社会においては、国民の精神や国家意識を再統合するための装置としてのシステムや施設・行事などはあちらこちらに埋め込まれているわけですが…。なんて話しをしているうちに時間はなくなり、暴力とは何か、暴力の解体手法の検討は第3回へと引き継がれたのでした。

(photo by ばたこん)
nice!(0)  コメント(0) 

フィールドワーク沖縄2014-後

henoko2014.JPG

【第3日目】 [春海-牧港補給基地-普天間基地-キャンプ瑞慶覧-キャンプ桑江-陸軍貯油施設-嘉手納飛行場-嘉手納弾薬庫地区-キャンプシールズ-キャンプハンセン-キャンプシュワブ-辺野古-山甌-高江(北部訓練場)-大宜味-屋我地島-古宇利島-今帰仁-名護-道の駅許田-コザ(サンライズホテル-民謡クラブなんた浜)-春海]

第3日目は、現在の沖縄ということで、米軍基地を中心として、アクチュアルな沖縄について見聞きすることにしました。その行程からも分かるように、長い距離を移動したにもかかわらず、その大半が米軍基地から米軍基地への移動となってしまっているのです。

いくつかの基地を通りすぎ、なんだかだだっ広く、万里の長城のような塀に囲まれている基地に出くわしました。そうです、極東最大の米空軍基地である嘉手納基地です。ともかく基地内を見てみようと通称「安保の見える丘」と呼ばれている丘に上りました。最近では、丘の直ぐ裏手に「嘉手納道の駅」ができ、そのビルの展望台の方が高い位置にあるので、多くの方がそちらに行くのですが、下見で見比べた結果、安保の丘の方が基地の中がよく見えることが分かったので、そちらに上ることにしました。なぜ、よく見えるかというと、安保の丘の方が、基地内にせり出したような形になっているからです。つまり、基地内の様子がよく分かるということです。ちょうど正面には、二本の大滑走路とそれを横切る向こうには、F15イーグルとそのかもぼこ型の格納庫を見渡すことができます。で、展望台からだとここらへんが中心となるのですが、安保の丘からだと基地に向かって右手の駐機場がよく見えます。そこには、嘉手納基地の売り物の機能である情報収集関係の飛行機がずらっと並んでいます。P3C対潜哨戒機をはじめ、その後継のP8ポセイドンなどです。安保なんて言われて直ぐにピンと来るような若者も少なくなったかとは思います。ただ、最近では領土の問題や、集団的自衛権とやらの関係でその存在も、当然とは言え、 見て見ぬわけにもいかなくなっていますね。安保の丘に来ると、よく居合わせた若者たちから、「なんで、日本の中にこんな大きな米軍基地があるの?」「それはよ、日本に他国から軍事的な何かあったときに、守るためによ」「そういう取り決めがあるの?」「それが、日米安保条約よ」なんて、会話が聞こえてきたりします。その取り決めが以下の条文です。

[日米安保条約第5条]
1.
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
2.
前記の武力攻撃及びその結果として執った全ての措置は、国際連合憲章第51条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。

特に、第1項に注目してみてくださいね。軍事的な支援をするには、自国の憲法上の規定及び手続きに従って…、とありますね。ここではアメリカに助けてもらうわけですから、アメリカの憲法、すなわち議会等の承認を得てということですね。議会は、当然、自国の利益を優先するでしょうね。どちらにしてもアメリカの参戦は不確かで、少なからず自動的ではないということです。


嘉手納基地を過ぎ、沖縄自動車道をさらに北上します。フィールドワーク沖縄において定点観測の場所として大事にしている辺野古に向かいます。辺野古の海は今日も穏やかでした。座り込みをしている方々にさっそくお話を伺います。この1年間の中で、辺野古に関する大きな出来事といえば、1つは年末の県知事による埋め立て承認であり、もう1つは年明けにあった名護市の市長選です。今までの経過の再確認とともに、この1年間での出来事の報告、今後の運動の方向などについて、話を伺うことができました。フィールドワーク参加者たちからも、様々な質問がでました。なかでも、「皆さんの運動の目的は何ですか?」という質問に対して、「法的権利を守ること」「環境を守ること」と応えていただきましたが、この応答は、国民国家であるはずの日本において、例えば、平和運動としての目的としては、たいへん正統性のあるもので、正しい運動のあり方を示唆してくれました。そして、そうした応答に加えて、「やはり、一番の目的はいのち(生命)を守ることかな」と言われました。んーっ、この言葉に僕は深く感動しました。国民国家内において体制側が不当な暴力を行使してきた場合、国民は、その暴力に対抗するためには、法的な権利の回復を目指すことや、生活権を担保するために環境の保全を訴えることなどが中心となるでしょう。そうした闘いは、力対力による抑止的なバランス効果によって体制側の力を無力化することになります。これはこれで、国民国家内における正しい解決の仕方ではあるのですが、現場に渦巻く暴力そのものを解体したわけではありません。暴力そのものを解体するには、自分たちの生活世界の外にある真の他者の存在に気づく必要があるのです。その真の他者こそ、「いのち(生命)」なのです。辺野古で運動をしている方々は、そのことに気づいていらっしゃる。このことは、その運動の方向性と方法が正しいことの証明です。そうした運動の大先輩である阿波根昌鴻さんは、平和運動を続けるなかで達したある境地を次のように言います。

殺し合いではなく助け合う。奪い合いではなく譲り合う。いじめるのではなく教え合う。それが実行できたとき、真の幸せが生まれてくる。
私たちの平和運動は、ただ沖縄から米軍基地をなくしただけではやめられません。地球上のすべての国に日本の平和憲法を適用して、地球上からすべての武器をなくし、そして、地球上の生きものがすべての資源や富を、平等にバランスよく分け合うようにすること。そして、すべての人が能力に応じて働き、必要に応じて感謝の気持ちで受け取れる社会が築き上がるまでは、この平和運動はやめられません。

阿波根さんの言葉の中には、たいへん重要な意味や方法などが隠されています。皆さんも是非、聞こえない声に耳を傾けてみてください。もし、その声を聴くことができたのなら、僕たちがフィールドワークをやるということ、辺野古での運動、阿波根さんたちの伊江島での運動などなどが、大事な何かによって繋がっていることに気づくかもしれません。

さぁ、この後に高江での対話、コザでの対話、そして、最終日における那覇路地裏での対話と話を続けていきたいのですが、このまま書き続けていくと、大長編となってしまいます。なので、とりあえず、ブログでの報告はここらへんで区切らせていただき、さらなる僕との対話を希望される方は、まずは来年も実施するであろうフィールドワーク沖縄2015に参加していただくこと、あとは市民講座や大学での講義などに顔を出していただければ幸いです。あっ、それと少々遅れてますが、4月の頭には刊行されるであろう僕の新刊などをお読みいただけると、この話の続きというか詳しい概要が分かるはずです。それでは、またの機会に…。

【第4日目】 [春海-首里-壺屋-那覇路地裏-春海-Rhizome-Bar土-春海](行程のみ)

tuboya2014.JPG

nice!(0)  コメント(0) 

フィールドワーク沖縄2014-中

kudaka2014.JPG

【第2日目】 [春海-安座真港-久高島-安座真港-セイファ御嶽-浜辺の茶屋-食堂かりか-春海-栄町-春海]

2日目のテーマは、昔の沖縄ということで、琉球の精神文化に触れる旅となりました。本日の中心フィールドは、琉球神話発祥の地である久高島の探訪です。

1日を有効に使おうと、朝一番の船に間に合うように宿を出ました。清々しい朝の空気の中、マー坊たちに迎えられて無事、朝一番の船に乗り込むことができました。昨年の久高島は、たいへんな雨になり、全身びしょ濡れとなりながら、早々に撤収したのですが、今年のメンバーは晴れパワー強く、とてもよい天気となりました。久高島にかぎらず、沖縄には、野良のネコさんたちが多く居着いています。おおらかな生活が保障されているせいか、みなさん人なつっこく、とてもフレンドリーです。どうやら、彼らの多くは、私たち人間を親戚か同類のように思っているふしがあり、時折、ネコ語で親しげに話しかけてきます。島の中を探索する僕たちの前に現れては、首をかしげながら、何か語りかけてきます。中には、こちらですよと言わんばかり、後ろを振り向きつつ、しっぽを立て僕たちを先導するそぶりを見せる者もいます。都会のネコのように、直ぐには逃げるようなことはしないで、おうように構えている方々が多いのです。

最近の久高島は、スピリチュアルブームのせいか、パワースポットなどと言われ、若い女性方の一人ないし、二人組などの旅人が多く見受けられます。あーっ、僕たちの前にも自転車に乗った、OL風の女性二人組みが…。一人の方の表情険しく、もう一人方が和ませようといろいろと話しかけている様子。僕たちは想像たくましく、きっと職場とかで何か嫌なことがあったんだよ、それで、気分転換というかプラスのエネルギーをもらいに久高島に来たんだよ、なんて、勝手な話で盛り上がるのでした。でも、確かに、久高島には何か大きなエネルギーが潜んでいる気配を様々の所で感じます。例えば、昔、久高島で12年に一度行われていた祭祀儀礼であるイザイホーの中では、神女となった女性たちが、次のように神歌を唱えたりします。意訳文だけで紹介しますと…。

今日の時を直して
今の時を直して
降りて 降りなさって
ニライのアマミ御ティジ
ニライのアマミ御ティジ
クニチャシャ(神女)の根神御ティジ

これは、イザイホーが始まるときに謡われた神歌ですが、久高島での神歌のことをティルルと呼びます。こうした神歌が沖縄のあちらこちらに残っていて、1年を通じて祭祀儀礼のときに、謡い継がれているわけです。これらの神歌には、いろいろな共通点があります。なかでも、僕が気になっている点は、例えば、琉球における最高神は、太陽神(ティダの神様)で、絶対的な立場にあります。だとすれば、祭祀儀礼のときの神歌もティダを崇める歌詞に終始するのではないかと思うのですが、ティルルからも分かるように、ティダの配下というか、ティダから派生した神々との対話が中心であるという点です。久高島の場合は、琉球創成の神であるアマミキヨとの対話がその行為の中心となっているのです。この構造は、とても興味深いです。暮らしというか、生活世界における対話の相手が、絶対的な他者に相当するであろうティダとの直接的な対話ではなく、ティダから命を受けたアマミキヨであり、彼女との対話を深めることによって、結果として、絶対的な神の存在であるティダの存在が際立つような構造となっているのです。当然の流れとして、ティダとは誰か、ティダとは何かという意識へと繋がっていくわけですが…。つまり、こうした実践というか活動の積み重ねの結果、ある意味での琉球精神が基層文化として定着していったと考えられる、沖縄性であるところの真の他者としての生命の存在の気づきへと繋がっているのではないかと僕は推測しているのです。話しが広がってしまいました、機会あるときに詳しく話します。で、久高島にパワーがあるということは、つまり、この生命の源である太陽の光のパワーが満ち溢れた場所であるということなのです。そして、そのパワースポットであろうと称される場所には、必ず太陽との何らかの深い関係があるのです。今回は、お天気の神様のおかげで、久高島の生命の源である太陽の光を思う存分浴びることができ、活き活きとした心持ちとなり、那覇へと戻ったのでした。

途中、セイファ御嶽のこと、浜辺の茶屋、食堂かりかでの対話、そして、夜の栄町での対話などにも書きたいことはたくさんあるのですが、きりがなくなってしまうので、今日はここまでです。

piza2014.JPG

nice!(0)  コメント(0) 

フィールドワーク沖縄2014-前

tuboyasakaya-f.JPG

今年も始まりましたフィールドワーク沖縄、今年の参加者は昨年の倍以上となりまして、共に学ぶ者としては、うれしいかぎりです。

今年のテーマは何かなどと考えたのですが、昨年掲げた「対話」以上のテーマが思い浮かばず、今年も原則、「対話」でいこうと考えていました。確かに「対話」であったことはたいへん重要だったのですが、結論を先に言うと、継続は力というか同じ「対話」をテーマとして意識したのですが、今年のそれはより深化したものとなりました。そのことを少し具体的に言うと、「見えないものを観る力、聞こえない声を聴く力」を養う旅となったことです。結果として、今回のフィールドワークにおける目的となった「見えないものを観る力、聞こえない声を聴く力」は、本来、多くの人が本性として持つ力の1つであったと思います。それが、やはり、発展なのか後退なのか分かりませんが、時代の流れと共に萎えさせられ、現代人の多くは、そんな力があったことすらすっかり忘れてしまった感が強いことでしょう。そうだとすれば、旅をすることでそんな忘れたというか、紛らされてしまった本来、私たちが持っているはずの力を回復させることになったようです。

そんな印象を持つこととなった今回のフィールドワーク、報告と言うよりは、徒然なるままに、思い浮かんだことを書き連ねておこうと思います。

〈フィールドワーク沖縄2014〉
【前夜】 [那覇空港-春海-山海-国際通り-ユニオン-春海]
フィールドワーク開始1日前、参加者は那覇集合ということで、那覇空港に三々五々集まりました。那覇空港は、何年かすると第2滑走路ができます。地方の空港で、こうした規模の空港を維持できることは、たいしたものであるのですが、やはり、忘れてはいけないことは、ここ那覇空港は軍民共用空港であるということです。滑走路脇には、P3C哨戒機をはじめとする軍用機が機影を連ね、スクラブル発進時には、自衛隊機優先で民間機は待ちぼうけを食わされます。各社の旅客機発着の合間を縫うように発進される戦闘機の存在は、観光をセールスポイントとしている島の表玄関としてはあまりにも不釣り合いです。安心・安全な場所であってほしいな~、などと思っているうちに、ぼんやりと眺めていた到着ゲートから、次々と参加者が降りてきました。初めての人も、顔見知りの人もいます。

もう、長~いおつき合いとなる宿のご夫婦。ともかく、お二人とも若い! 初めて会ってから、既に20年近く経っているのに、まったく変わっていない。宿の中だけ時間の流れがゆっくりなのか、いつも同じ笑顔で僕たちを迎えてくれます。間違ってもオジーとかオバーとは呼べないお二人、まずは、親父さんと久しぶりに会うと、ひとしきり時事話に花を咲かせます。沖縄の今昔のことはあたり前として、日本全体のこと世界のこと、次々と話題が広がります。ここの宿に泊まり、沖縄のことがより好きになった人は多く、好きが講じて研究者となった人もいます。それが皆立派になっていて、まさに沖縄塾なのです。塾生の一人として末席に名を連ねている次第です。そして奥さん、沖縄の習慣に合わせて、下の名前で呼ばせてもらうことが多いのですが、沖縄島北部出身のK子さん、僕にとっては、お母さんと言うよりは、お姉さん、つまり、ネーネーですが、現地で困ったときは、何でも相談に乗ってくれる頼りになるネーネーです。そんなお美しいネーネーであるK子さんは、琉球の女性らしくまさにセジ高く、いつ聴いても深く頷くアドバス多く、ここに泊まる方々のカウンセラーでもあるのです。

前夜祭として、沖縄料理を食しに行く山海さん、ここのご家族とも、もうだいぶ長い交流をさせていただいています。一人娘のAちゃんは小学校低学年だったのに、いつしか社会人となり、立派な大人となっています。一方で親父さんとお袋さんは、これまた、会ったときからまったく変わらず、親父さんは元気にチャンプルの鍋をふり、美人のママさんは愛想よく、共通の友人の話題や那覇の近況を大笑いをしながらやりとりをします。なんだか、親戚の家に帰ってきたような気になります。昔、彼らの親戚が横須賀にいらっしゃいました。沖縄と横須賀の繋がりもいろいろあります。琉球に寄りその足で日本に向かったアメリカ海兵隊のペリーが上陸したのが横須賀であったし、戦後まもなくの頃、南方から引き上げた沖縄の方々が最初に戻り、日本から切り離された沖縄に帰るまでの間、待機をさせられたのも横須賀でした。復帰前からある沖縄料理屋には、まだまだ僕の知らない歴史が刻みこまれているのです。

【第1日目】 [春海-嘉数の丘-真玉橋-糸満(グリーンフィールド)-轟壕-魂魄の塔-韓国人慰霊塔-沖縄県平和祈念資料館-平和の礎-ひめゆり平和祈念資料館-春海-ルビー(沖縄大衆食堂)-春海]
まずまずの天気の中、初日の本日は、沖縄戦の実相ということで、アメリカ軍の行軍ならびに日本軍の撤退路、住民の避難路に沿いながら、沖縄島南部へと南下する旅です。

遠くには、1945年4月1日米軍が上陸した読谷の浜、足下には激戦地の1つであった嘉数、そして、普天間基地を一望できる嘉数の丘は、これから始まるフィールドワーク沖縄のスタート地にふさわしい場所です。この時期ならではなのか、毎日のように行われているのか、嘉数の丘に来ると、いつも海兵隊新兵のスタディツアーの一行と出くわします。急に降ってきたスコールの中、案内役の教育担当者でしょう、いつも見るより多い新兵たちを相手に説明に熱気を帯びています。何の説明をしているかと、少し耳を傾けると、まさに、ここ嘉数の丘の戦闘で、海兵隊の戦史に残る戦車30両中22両が大破された話しを興奮気味にレクチャーしているところでした。嘉数での苦戦の経験をもとにして、ゲリラ戦対策をしベトナム戦争に臨んだらしいのですが、結果は負けで学習をしてないとはこのことですね。でも、嘉数での経験を毎度、若い兵士たちに公園中に響き渡るような大声でまくし立てています。現在、徴兵制ではないアメリカ軍において、海兵隊の新兵は見るからに若いです。高校生ぐらいの感じの若者が多く、出身も様々でこれから兵隊になるというよりも、ハイスクールのオリエンテーションを受けているような感じです。聞いた話によると、お金のかからないキャリアアップの契機として、軍に志願してくる者も多いそうです。

南部に行くとき、このところいつもお昼ご飯に立ち寄るのが、糸満のステーキ屋さんです。沖縄ではステーキ屋さんが有名で、那覇の市街にはあちらこちらにステーキ専門店がありますが、観光客を相手とした所が多く今ひとつ味・ボリューム等で納得できない場合が多いのですが、ここは違います。店に入ると、とてもその歳には見えない大ママが出迎えてくれます。復帰前の沖縄では、牛肉が手に入りやすい環境があったそうですが、復帰後、それも牛肉の自由化後は、沖縄だからという特別な利点はないそうですが、専門店ならではのルートを駆使し安くておいしい牛肉を仕入れているそうです。ママはいつも言います。肉そのものの味を楽しむために、まずは塩こしょうだけで食べてみてねと…。思う存分に肉が食べたいときは、ここならではのジャンボステーキのセットを頼みます。サラダ、スープ、ライスかパン、そしてアイスティがついて、400g!のステーキが1650円なのです。他の肉料理、ハンバーグ、ビーフシチュー、それにカツサンドも美味しくボリュームたっぷりでリーズナブルです。沖縄のステーキ屋さんでは、必ずついてくるスープやサラダのドレッシング、そしてステーキソースのA-1などなど、様々な文化の記憶が1つ1つの品物に宿っています。

糸満をはじめとする南部の地域は、沖縄戦時、戦闘激しく多くの犠牲者を出した地域です。犠牲者の多くが、戦闘地域を逃げまどう民間人でした。そんな避難民の多くが逃げ込んだのが、南部地域に点在する鍾乳洞のガマです。大きいガマには、何百人もの人が逃げ込んでいたそうです。そうしたガマでは、沖縄戦中、たくさんの悲劇が生まれました。特に、後退してくる日本軍と混在せざるをえなくなった頃から、その悲劇の多くは起きました。その実体を簡単に言えば、軍隊は国家を守っても国民は守らないということです。
僕の沖縄での恩師の一人である音楽家・海勢頭豊氏(作詞・作曲)が歌う『月桃』です。

1.月桃ゆれて 花咲けば 夏のたよりは 南風 
  緑は萌える うりずんの ふるさとの夏

2.月桃白い花のかんざし 村のはずれの石垣に 
  手に取る人も 今はいない ふるさとの夏

3.摩文仁の丘の 祈りの歌に 夏の真昼は 青い空 
  誓いの言葉 今も新たな ふるさとの夏

4.海はまぶしい キャンの岬に 寄せくる波は 変わらねど 
  変わるはてない 浮世の情け ふるさとの夏

5.六月二十三日待たず 月桃の花 散りました 
  長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

6.香れよ香れ 月桃の花 永久(とわ)に咲く身の 花心 
  変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏

とにかく、戦争をやったらダメなんです。しかしながら、近代以降の世界は、〈バブル→恐慌→戦争〉という愚かなパターンを繰り返しています。というか、これ以外のパターンは未だ現れずです。日本は、今、まさにデフレ型の不況の真っ最中です。軍需複合産業や戦争による解決ではない方法を人類として初めて打ち出すことができるのか、いつか来た道へと舞い戻るかどうかの瀬戸際にあることを忘れてはいけないと思うのです。

県立の平和祈念資料館でも、ひめゆりの平和祈念資料館でも多くの若者に出会いました。各展示を食い入るように観ている者もいれば、たわいない雑談をしながら足早に通り過ぎる者もいます。そこには、戦争の実相が引き起こす悲劇の伝承もあれば、当時の空気感に抗えず国家の思うように主体化されていった国民の実体や、それに加担した教師たちの存在など、多くの展示物が訴える聞こえない声が渦巻いていたはずです。そんな聞こえない声にも耳を傾ける力を自らの意志で身につけてもらいたいものです。若者たちよ、目を凝らせ耳を澄ませ…。一方で僕たちは、陽が傾き辺りが暗くなるまで、身体にまとわりつくような壕の闇に、ウージの畑をざわつかせ魂魄の塔を吹き抜ける風の音に、韓国人慰霊塔碑に刻まれる虐殺の文字に、礎に残されている名もない名に…、耳を澄ませ目凝らし続けたのでした。

ishiji2014.JPG
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。